魁皇博之 来歴

魁皇博之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 03:48 UTC 版)

来歴

入門まで

3人兄弟の末っ子として生を受けた。出生時の体重が4250グラムの巨体であった[6]直方市立直方東小学校時代は空手を習っており、小学4年のころから福岡県の相撲大会に出場していた[7]。直方市立第二中学校2年生の時に、友人からの誘いで柔道をはじめ、中学3年生時点で握力は85キロあったという。その巨体から、相撲部顧問の教師に相撲を勧められ、町内の相撲大会に出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかったという[8]

入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている[9]。北天佑も魁皇も、共に上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。

中学時代、友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、勧誘されたことがきっかけで卒業後に友綱部屋に入門した[8] 。進路に迷っていた際に友綱部屋の稽古を見学に行き、ちゃんこを食べさせてもらい本場所のチケットももらった。「なんとなく断れない状況だった。おれって、嫌と言えない性格だから」[7]と後に振り返っている。古賀少年の「俺、九重部屋にでも見学に行こうかな」という何気ない一言を聞いた周囲の大人が、角界入りする意志があるのだろうと早とちりして入門を根回ししたという話もある。

入門後

1988年3月場所で、「古賀」の四股名で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花)、若花田(後に66代横綱・3代若乃花)、和歌乃山(後に小結)、力櫻(後に幕内、プロレスラーに転向)など有望な新弟子がおり、「花の六三組」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった[10]。なお、入門当初は力士の名前をほとんど知らず、勧誘を受けるまで相撲部屋の存在すら知らなかった(当時はインターネットなど存在しなかったので相撲について気軽に知ることはできなかった)[11]

初めて番付に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく[12]、相撲嫌い[13] と慣れない上京生活に苦しみ、入門半年後に脱走を試みたが、脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る[8][7]。その後は、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、幕下時代の1991年九州場所で5勝2敗と勝ち越した。

1992年初場所で十両昇進。親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「魁皇」と改名[14]1993年5月場所で新入幕となり、若手の有望株として注目を集めた[10]

入幕後・幕内初優勝達成

新入幕場所は4勝11敗と大きく負け越し十両に陥落したが、同年11月場所に再入幕し10勝を挙げ、1994年3月場所には対横綱戦初挑戦で曙を下し、初金星を獲得したほか、若ノ花、武蔵丸の2大関を下すなど、初の三賞となる殊勲賞を受賞した。翌5月場所には小結に昇進し、1995年1月場所の新関脇場所から13場所連続で関脇に在位した(豪栄道に次ぐ歴代2位)。

その後も度々三役に上がり、大関候補として期待を寄せられたが、1997年5月場所11日目の貴ノ浪戦で左太股を故障し、怪我の回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の1990年代の土俵に在った[10]。1999年5月場所では終盤8連勝で12勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所は8勝で終わり、11月場所では終盤9連勝で11勝し敢闘賞を受賞したが、次の場所で7勝と負け越した。この2000年1月場所は千秋楽7勝7敗で、初優勝を狙う武双山を相手に負けて優勝を献上し、自身は負け越しで6場所ぶりに関脇から陥落しただけに、後に本人も「あれほど屈辱的なことはなかった」と悔いている。周囲からもここまで言われるのかと思うほどきついことを言われた魁皇は、それまで全くしてこなかったウエイトトレーニングを導入し、左腕や体の前面の筋肉の弱さを補った[15]

小結で迎えた2000年5月場所では、14勝1敗で幕内初優勝を果たす[1]。福岡県出身力士としての優勝は1932年3月場所の小結沖ツ海(9勝1敗)以来2人目で、68年ぶりの快挙であった。「賜杯は重い。優勝の重さを感じた。何回も夢に見たんだ」と悲願の初優勝の感想を語った[6]

次の翌7月場所は通算7回目の大関取り場所となり[16]、横綱・貴乃花に3場所連続勝利するなど11勝4敗とし、場所後の臨時理事会・番付編成会議ではわずか2分の審議で満場一致で大関昇進が決まった[17][1]。なお魁皇の関脇在位は21場所で、当時長谷川2代目琴錦(二人共元関脇)と並ぶ史上1位タイの記録であったが、のちに大関となった力士は魁皇のみである[18]。また三役(関脇・小結)在位は32場所で、2代琴錦の34場所に次ぐ史上2位の記録である[10]昇進伝達式では「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬようけいこに精進します」と口上を述べた[17]。3場所通算33勝で大関昇進の目安は満たすものの、最近の大関昇進の勝ち星数の平均からは劣るという指摘に審判部長の境川(元横綱・佐田の山)は「勝ち星数じゃない。ポカがあってもいい。強いと誰もが認めたんだ」と述べ、力士としての力の「絶対評価」で大関昇進を決めたことを強調した[7]

大関時代

大関昇進は千代大海出島・武双山・雅山らに遅れをとったが、大関としては合計4度の優勝(2001年3月場所、2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所)を経験した。しかし、怪我の多さや精神的な脆さが露呈し、途中休場して綱取りのチャンスを無下にしてしまうことも多かった。

32歳となる2004年は、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には千秋楽で朝青龍に勝ち13勝2敗で5回目の優勝を遂げた。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし初日に琴光喜に負け10日目に新鋭だった白鵬にも負け2敗、さらに12日目に雅山に負け3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱朝青龍を破っての優勝次点なら昇進の可能性がある」との発言が当時の押尾川(元大関大麒麟審判部長からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し12勝3敗、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌2005年1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中休場して失敗に終わった。

2005年1月場所から2006年3月場所までは、途中休場により翌場所大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の大関角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆したが、師匠の友綱親方(元関脇魁輝)と相談の上、もし負け越して大関陥落が決まれば引退する決意も固めていた。12日目朝青龍に敗れ5勝7敗と絶体絶命だったが、魁皇はそこから踏ん張って出島・琴光喜に連勝し14日目で7勝7敗に。そして千秋楽では朝青龍と優勝を争った白鵬(当時関脇)を寄り切って8勝7敗、辛うじて勝ち越しを決め角番を脱した。2006年5月場所以降は、千秋楽まで皆勤出場場所が増えたものの、成績は10勝すらままならず勝ち越しても8・9勝と1桁勝ち星がやっとの状態が多く、何度も引退の危機を迎えていた。

2007年9月場所4日目の小結安馬(現・日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成したが、その2日後、右太腿の負傷を悪化させ途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。

2008年8月のモンゴル巡業では、当時の両横綱朝青龍、白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった[19]。2008年11月場所前、大関琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に前頭2枚目若の里との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場した。

靖国神社奉納大相撲での大関魁皇関(2009年4月10日撮影)

2009年頃からは満足な稽古もままならず、千代大海と共に角番を繰り返す状況を見かねた横審が「累積5回の角番で降格や引退勧告」なる具体案まで出すほどの風当たりの厳しさとなった[20]。1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目豪風を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。

2009年11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇・高見山の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇・把瑠都を破って史上3人目の通算800勝を果たし、九重親方(58代横綱・千代の富士)は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱北の湖の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なお、この年は全6場所の成績がすべて8勝7敗であった。

幕内(808勝)・通算(1,046勝)各最多勝利更新

2010年1月場所2日目に前頭2枚目豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだ。3日目にはその千代の富士の愛弟子である千代大海(当時・関脇)に対し、豪快な送り投げで勝利し、幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった(千代大海はこの取組を最後に引退)。10日目には引き落としで日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には稀勢の里上手投げで破って勝ち越しを決め、千秋楽でも同4枚目垣添送り倒しで勝利し、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。

2010年4月26日総理大臣官邸での内閣総理大臣顕彰式で鳩山由紀夫内閣総理大臣から盾を授与される

2010年3月場所で幕内通算在位が100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。3月30日、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、日本政府内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し、4月26日総理大臣官邸で顕彰式が執り行われた[21]

2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる通算1,000勝を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため、大関以上の日本人力士は魁皇のみとなり、同時に幕内最高優勝経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出した。

2010年11月場所は初日に安美錦に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目豊ノ島に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝3敗の好成績を挙げた。

2011年1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる通算100場所勝ち越しを達成した。2011年5月技量審査場所12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1,431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの寄り切りで勝ち、通算勝ち星を1,044勝とした。

翌7月場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目を迎えた。同場所では初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1,045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1,046勝の記録更新となった。その後は7日目に3勝目を挙げたが、この日の通算1,047勝目が現役最後の勝利となった。

現役引退

2011年7月場所10日目の琴欧洲戦は、押し出されて3勝7敗となり、負け越しがほぼ確定的となった時点で、10日目の取組後記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。翌11日目の引退会見での魁皇は「最高の相撲人生でした。もう悔いも後悔も一切ありません」と安堵の笑みを浮かべながらインタビューに応えていた[22]

角番制度を利用すれば大関在位記録を歴代1位の66場所に伸ばすことができたが、戦友・千代大海への配慮からあえてそれをせず大関在位65場所で打ち止めた[23]

初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また2000年9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(2011年7月場所引退時で38歳11か月、従来は1932年10月場所、能代潟の37歳6か月)。2011年版ギネス世界記録に「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された[24]

福岡県知事小川洋は2011年8月20日に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「特別市民文化栄誉賞[25]」を贈った。

断髪式引退相撲2012年5月27日両国国技館で行われ、同期の貴乃花や曙ら、約340人がはさみを入れた。「正直に言えば、いろんなところでこみあげてくるものがあった。親の時は、がまんできなかった」と述べた[26]。止め鋏の前には、史上単独1位となる通算1046勝目を挙げた取組の実況が再現され、約1万人の観衆でぎっしりと埋まった館内が“魁皇コール”に包まれると魁皇は「鳥肌が立った。最高の一日だった」と涙を流した。

年寄:浅香山として

土俵下で審判を務める浅香山親方(2016年5月22日撮影)

引退相撲後の2013年3月からスポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では、地元である九州場所担当年寄に指名された[27]

2013年10月、2014年中に友綱部屋から独立して、東京都墨田区内に浅香山部屋を創設する意向であることを明かした[28]。2014年1月30日の日本相撲協会理事会で、2月1日付で友綱部屋より独立して浅香山部屋を設立することが認められ[29]、部屋持ち師匠として新たなスタートを切った。

2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された[30]

2019年7月場所後の番付編成会議で魁勝旦祈が浅香山部屋初の関取昇進を果たした。奇しくも元魁皇の47歳の誕生日に発表された。

2020年1月場所12日目には幕下の取組における勝負審判の職務中に土俵下に落下した幕下力士に直撃して右の股関節付近を痛め、車いすで両国国技館内の相撲診療所に直行した。「足を開いていたのを閉じようとしたら、その上に落ちてきた。右の股関節。音がしたので切れたと思う。右はやったことない。紋付きで(診療所に)行くなんて」と本人は痛みをこらえながら苦笑い[31]

2021年3月31日照ノ富士春雄の大関復帰昇進の伝達式では、同じ一門の高島理事に同行し、使者を務めた[32]。また同年7月21日、照ノ富士の横綱昇進の伝達式でも、高島理事に同行して使者を務めている[33]。横綱に昇進した照ノ富士を指して「諦めなければこうなれる」と祝福した[34]

2023年2月1日付で審判部副部長に昇格。委員から役員待遇委員となり、理事会に出席する立場となった[35]。2024年1月26日に、2月2日に開催される理事選が無投票となることが決定したため、立候補した浅香山は改選により理事に新任することが決定[36]。同年3月25日の評議員会で理事就任が承認された[37]

2024年1月場所の職務は、体調不良のため12日目から休場[38]

貴闘力が2024年3月場所中に公開した談話によると、宮城野部屋閉鎖が決定的となった情勢で、同場所中に元白鵬の宮城野が協会が処遇を再考するように協会を説得してほしいと浅香山に頼んだという[39]


注釈

  1. ^ a b c 公傷・全休
  2. ^ 曙・3代目若乃花・武蔵丸貴ノ浪優勝決定戦
  3. ^ 貴乃花・曙・武蔵丸と優勝決定戦
  4. ^ 左腸腰筋及び恥骨筋筋挫傷により12日目から途中休場
  5. ^ 左恥骨筋挫傷により11日目から途中休場
  6. ^ 腰椎椎間板ヘルニア・左腰神経根麻痺により9日目から途中休場
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 大関角番(全13回)
  8. ^ 腰部椎間板症により4日目から途中休場
  9. ^ 右上腕二頭筋長頭腱断裂により4日目から途中休場
  10. ^ 左肩腱板炎により10日目から途中休場
  11. ^ 腰部筋筋膜炎により6日目から途中休場
  12. ^ 右大腿屈筋筋繊維断裂により4日目から途中休場
  13. ^ 腰部椎間板症により9日目から途中休場
  14. ^ 腰部椎間板症により7日目から途中休場
  15. ^ 左大腿屈筋損傷により13日目から途中休場
  16. ^ 左大腿屈筋損傷により6日目から途中休場
  17. ^ 右下腿三頭筋筋挫傷・左上腕三頭筋筋挫傷により4日目から途中休場
  18. ^ 3月場所20年間連続勝ち越し達成。
  19. ^ 千秋楽に通算1000勝達成。
  20. ^ 左肩甲下筋腱断裂により11日目から途中休場
  21. ^ 12日目に通算100場所勝ち越し達成。

出典

  1. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p28
  2. ^ 朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面。「ゴリラ」と名付けたのは若乃花で、魁皇自身は大いに不本意だという。
  3. ^ 朝乃若が呼び始めたあだ名。
  4. ^ 相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説”. 【SPAIA】スパイア (2020年1月12日). 2020年11月16日閲覧。
  5. ^ 福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。
  6. ^ a b c 「ひと 魁皇博之さん」朝日新聞2000年5月22日付朝刊総合面
  7. ^ a b c d e f 朝日新聞2000年7月26日付朝刊スポーツ面
  8. ^ a b c がんばったぶんだけ成長1〜浅香山博之 PHP人材開発 2013年1月11日更新
  9. ^ 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」
  10. ^ a b c d e 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)176ページから177ページ
  11. ^ 嫌で仕方なかった相撲、一度スカした魁皇 父は見守った 朝日新聞DIGITAL (聞き手・谷辺晃子) 2019年3月17日07時22分(朝日新聞社、2019年3月18日閲覧)
  12. ^ その後も、序二段三段目幕下十両幕内のデビュー場所はすべて負け越している。
  13. ^ 自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。
  14. ^ ただし、角界入門時の発表では郷土の名山・福智山にちなんで「福智山」という四股名を名乗る予定であった。1988年(昭和63年)2月29日付西日本新聞(筑豊版)より。
  15. ^ 元魁皇の浅香山親方「あれほど屈辱的なことは」最強大関への分岐点の一番/歴代大関の昇進場所 日刊スポーツ 2023年6月29日8時17分 (2023年6月29日閲覧)
  16. ^ 朝日新聞2000年7月5日付朝刊スポーツ面
  17. ^ a b 朝日新聞2000年7月26日付夕刊社会面
  18. ^ 現在は琴光喜(元大関)の22場所に次ぎ史上2位タイ。
  19. ^ スポーツニッポン 2008年8月27日付紙面
  20. ^ 大関陣の不甲斐なさを示す意外な数字・〜カド番大関・千代大海らの罪〜 SportsGraphic NuberWeb 2009/05/22 06:01
  21. ^ 首相官邸ホームページ 内閣総理大臣顕彰式 平成22年4月26日
  22. ^ 魁皇 笑顔の引退会見「悔いも後悔もない」 スポーツニッポン 2011年7月21日閲覧
  23. ^ a b 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(2/4ページ) NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)
  24. ^ これにより角界で史上唯一ギネス記録を複数保持する力士となった。
  25. ^ 直方市は2000年11月に魁皇の初優勝に対し、「市民文化栄誉賞」を既に贈っていたため、新しい賞を魁皇に贈るために創設された賞である。
  26. ^ 魁皇断髪式で涙「親の時は…」 日刊スポーツ(2012年5月27日)
  27. ^ 元魁皇の浅香山親方“地元”九州場所担当に、てこ入れへ抜てき スポーツニッポン 2013年2月5日閲覧
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  30. ^ 元魁皇が審判デビューへ「いよいよだね」 nikkansports.com 2014年5月10日17時25分
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  49. ^ 元大関・魁皇の妻 親方と弟子の愛で二度目のがんを乗り切る!女性自身
  50. ^ 元大関「魁皇」の妻が歩む波瀾万丈すぎる人生 相撲部屋の女将になった元女子プロレスラー東洋経済ONLINE
  51. ^ 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(1/3ページ) Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)
  52. ^ 「出ていったこともあった」夫・魁皇と“2回の離婚危機”…女子プロレスラーから相撲部屋の女将になった西脇充子が明かす“夫婦の関係性”(2/3ページ) Number Web 2024/04/07 17:02 (2024年4月8日閲覧)
  53. ^ 元魁皇・浅香山親方「最近は元気だった。信じられない」 スポニチ 2015年6月21日
  54. ^ 「戦友」の親方たち、早過ぎる死を悼む 九重親方死去 朝日新聞 2016年8月1日記事
  55. ^ 当時の幕内取組回数・史上1位は武蔵丸-貴ノ浪の58回。現在の史上1位は琴奨菊-稀勢の里の60回。
  56. ^ 「魁皇さんは、僕の涙腺を2回も崩壊させた男です」元大関・千代大海46歳がいま明かす友情秘話と、親方としての哲学「弟子に学ぶことのほうが…」(1/4ページ) NumberWeb 2022/09/10 11:02 (2022年9月12日閲覧)
  57. ^ 朝日新聞 2003年9月19日
  58. ^ 1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の、東大関1の若乃花、東大関2の貴ノ浪であった。東横綱貴乃花の休場のために乱戦になった。
  59. ^ 1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸。
  60. ^ けがしても休めぬ 稀勢の里追い詰めた使命感 日本経済新聞 2019年1月16日記事
  61. ^ 浅香山親方の癒やしは愛犬 シェビーと昨年末別れ「夢でもいいから会いたい」/親方衆の癒やし 日刊スポーツ 2023年9月6日5時0分 (2023年9月9日閲覧)
  62. ^ 宮城野部屋の暴行問題 師弟一括で浅香山部屋受け入れへ調整 大島親方「理事の下でまた勉強」/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online (2024年3月16日). 2024年3月29日閲覧。
  63. ^ 佐々木一郎 (2024年3月28日). “【イチロー大相撲〈17〉】解説=宮城野部屋はなぜ閉鎖になるのか - 大相撲 : 日刊スポーツ・プレミアム”. nikkansports.com. 2024年3月29日閲覧。
  64. ^ 当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱北の湖日本相撲協会理事長)と、横綱武蔵丸の2人が達成した小結以上在位70場所。北の湖は横綱63、大関3、関脇2、小結2で、武蔵丸は横綱27、大関32、関脇9、小結2(出典=読売新聞東京本社発行・大相撲・2007年2月号、pp. 134-135)
  65. ^ a b 「相撲部屋聞き書き帖」『相撲』2019年12月号、ベースボール・マガジン社、93頁。 
  66. ^ a b c 直方市 |市民栄誉賞等受賞者
  67. ^ 魁皇関 内閣総理大臣顕彰受賞 2012年3月4日閲覧
  68. ^ 左上腕二頭筋長頭及び短頭断裂により4日目から途中休場






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