内務省 (日本)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 17:27 UTC 版)
歴史
- 明治維新の際、律令制を基本として省が設置された。当初、内政は民部省が扱うものとされたが、財政と徴税機構の一体化のために大蔵省に吸収合併されると、以後は内政を専門に管理する官庁がなく、その政務をめぐって大蔵省と太政官や他の省が争っていた。
- 1873年(明治6年)、征韓論がきっかけとなった政変(明治六年政変)を機に大久保利通が主導して太政官の下に「内務省」を新設(11月10日)[1]。自ら内務卿となった。
- 1874年(明治7年)には郵政事務が内務省の管轄となったが、1885年に農商務省へ移管。
- 1877年(明治10年)廃止された教部省の所管を引き継ぎ、社寺局を設置[2]。宗教政策も管轄する。
- 1878年(明治11年)大久保利通の死後伊藤博文が内務卿に就任する。
- 1884年(明治17年)、地理局が所管していた大三角測量業務を参謀本部の管轄に移管、以後地理局は地誌編纂を主な業務とすることとなった(日本の三角測量の歴史の項を参照)。
- 1885年(明治18年)の内閣制実施で内閣に属するようになり、山縣有朋が初代大臣となった。内務省は、全国の府県知事などの高官の任免権を握り、地方行政の中核を担った。
- 1886年(明治19年)2月27日、衛生局を設置し、衛生・医務の2課を設ける(勅令)。
- 1890年(明治23年)に鉄道庁が内務省の外局となるが、1892年に逓信省に移管。
- 1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙において、内務省による全国で25名の死者を出す選挙干渉がなされる。
- 1900年(明治33年)、社寺局を、神社局と宗教局に分割。前者は、国家神道政策を司ることとなる。
- 1911年(明治44年)、「大逆事件(幸徳事件)」を機に内務省警保局保安課の下の警視庁に特別高等警察、いわゆる「特高警察」を置いた。
- 1913年(大正2年)に宗教局を文部省へ移管[2]。
- 1920年(大正9年)、労働運動、農民運動の高まりを受け、社会局を新設。
- 1924年(大正13年)、前年の関東大震災を受けて内閣に設置された帝都復興院を縮小し、内務省に復興局設置。
- 1925年(大正14年)、治安維持法公布。
- 1933年(昭和8年)、ゴーストップ事件。
- 1937年(昭和12年)、内閣情報局と内務・文部両省を計画主務庁として、国民精神総動員運動開始。
- 1938年(昭和13年)、衛生局と社会局が厚生省として分離独立。国家総動員法制定。
- 1940年(昭和15年)、大政翼賛会発足。地方長官は翼賛会の地方支部長を兼ね、地方自治体の末端組織・翼賛体制の下部組織として部落会・町内会の組織化が進む。
- 1941年(昭和16年)、土木局・計画局(大臣官房都市計画課の後身)を国土局・防空局に改組。
- 1942年(昭和17年)、拓務省廃止により、外地に関する事務が内務省に移管。
- 1943年(昭和18年)、港湾事務を運輸通信省に移管。東京都制施行。
- 1945年(昭和20年)、防空事務・政府による検閲・特別高等警察などを廃止。
- 1946年(昭和21年)、連合国軍総司令部(GHQ)によって内務省幹部や警察・特高警察関係者などの公職追放が命じられる。前年の神道指令を受け国家神道を統括した神祇院(神社局の後身)を廃止、都道府県知事は公選制となる。また、占領目的に反する団体を取り締まる必要から、GHQは内務省に調査局を設置、これらの調査・監視・解散指定を行わせた。
- 1947年(昭和22年)、名称を内務省から公共省に変更し[注釈 6]、地方局を自治局に、警保局を外局公安庁にする組織改編を目論み、事実上の内務省存続を模索したが、結局GHQにより内務省が解体される。地方局の業務は全国選挙管理委員会・地方財政委員会・総理庁官房自治課などに分割、警察機構は国家地方警察及び自治体警察に分権化され、警察の「民主的」管理・政治的中立性確保のための制度として新たに公安委員会制度が採用された。国土局の業務は建設院(のち建設省に改称)に、調査局の業務は法務庁特別審査局に継承された。また、労働行政については厚生省から分離された労働省がつかさどることとなった。
注釈
- ^ 警保局は全国の警察機能を統括する部局であり、内務省解体後、その機能は警察庁に引き継がれたため、警保局長は、現在では概ね警察庁長官に相当する。現在においても、警察庁長官は各省の事務次官と同等の待遇であり、次官連絡会議の構成員である。
- ^ 邏卒総長であった川路利良は、1872年(明治5年)司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察。帰国後、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。
- ^ その他宗教一般の管理は1913年(大正2年)文部省へ部局「宗教局」とともに移管した。
- ^ 当時、内務省と農林省のどちらに入省すべきか迷っていた後藤田正晴は、内務官僚から「後藤田君、農林行政というのは農林省がやっているのではない。キミの言う住民に接しての農林行政をやっているのは内務省だ」と忠告されたという。それを聞いた後藤田は「そうかもしれん」と思い直して、内務省への入省を決めた。
- ^ 当時の文部省は道府県庁を通じて、内務省のコントロール下にあり、他省庁や軍部、マスコミからは、「内務省文部局」と揶揄されていた。
- ^ 内務省から総務省に名称変更する案もあった。
出典
- ^ a b c d 太政官『内務省ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治6年11月10日。太00237100 。
- ^ a b c d e f g アジア歴史資料センター. “用語詳細 : 内務省”. 国立公文書館. 2024年4月閲覧。
- ^ 『内務省』 - コトバンク
- ^ 『機』 2013年9月号 No258 藤原書店 p.16~17
- ^ 西川伸一「戦前期法制局研究序説-所掌事務,機構,および人事-」『政經論叢』第69巻第2-3号、明治大学政治経済研究所、2000年12月30日、139-170(152)、2017年10月1日閲覧。
- ^ 大霞会 1971a, p. 643.
- ^ 大霞会 1971b, pp. 897, 947.
- ^ 山田高生「ドイツ第二帝政期におけるポザドフスキ社会政策の形成(二) : 帝国(ライヒ)とプロイセンの関係をめぐって (成城学園創立70周年記念特集号)」『成城大学経済研究』98・99、成城大学、1988年1月、42頁、NAID 110000245635。
- ^ NHK 『さかのぼり日本史』 明治編 第四回 「官僚国家への道」
- ^ 『内務省職制及事務章程』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治7年01月 。
- ^ 『警察官僚の時代』, p. 24.
- ^ 『戦後日本の国家保守主義』, p. 9.
- ^ 梅本大介「内務省による教育行政の主導と「教育権の独立」:田中耕太郎による戦後教育行政改革構想への視点を中心に」『早稲田大学教育学会紀要』第12号、早稲田大学教育学会、2010年、56-63頁、CRID 1520290882073922176。
- ^ 大霞会 1971c, p. 185.
- ^ 『岩波講座 日本歴史20 近代7』 岩波書店 p.275~276
- ^ 『岩波講座 日本歴史20 近代7』 岩波書店 p.279~280
- ^ 内務省警保局保安課長ヨリ警察部長宛暗号電報訳文 八月十一日十時十分受領
- ^ a b c d e f g 大日方純夫 『天皇制警察と民衆』 日本評論社 p.256~259
- ^ 『警察官僚の時代』, p. 17.
- ^ 『都市問題』 第51巻 7号 東京市政調査会 p78
- ^ 『文藝春秋』 第42巻 第1号 文藝春秋 p.254
- ^ a b 大霞会 1971a.
- ^ 『各廳職員抄録』印刷局。NCID BA43725632。
- ^ 自治大学校 1966.
- ^ a b c d 自治大学校 1966, p. 225.
- ^ 西本肇「戦後における文部行政機構の法制と環境(二)」『北海道大學教育學部紀要』第47巻、北海道大學教育學部、1986年2月、15頁、hdl:2115/29291、ISSN 04410637、CRID 1050845763922823424。
- ^ “宗教年鑑 平成30年版”. 文化庁. p. 103. 2020年4月23日閲覧。
- ^ a b c 『戦後日本の国家保守主義』, p. 8-9.
- ^ 『戦後日本の国家保守主義』, p. 8.
- ^ 日本労働年鑑 第25集 1953年版 第三部 労働政策 第四編 行政機構の改革・人員整理および勤務評定制の施行
- ^ 「“内務省復活”に警告 総司令部 旧官僚の策動を重視」 読売新聞 1951年(昭和26年)12月28日
- ^ 『中央公論』第96巻 第7号 中央公論社 p180~182
- ^ 『警察官僚の時代』, p. 106-107.
- ^ 『四次防と自衛隊』 日本共産党中央委員会出版局編・発行 p.95
- ^ 『国会月報』 1997年10月号 586巻 国会資料協会 p.75~78
- ^ 『国会月報』 1997年12月号 588巻 国会資料協会 p.5
- ^ 『世界 (雑誌)』 2017年9月号 岩波書店 p.114-115
- ^ 1府6省に再編案 自民国家戦略本部が改革案 共同通信 2008年4月23日 20:45
- 内務省 (日本)のページへのリンク