内務省 (日本)
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沿革
設立の経緯
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1871年(明治4年)11月12日、岩倉使節団に副使として参加した大久保利通は、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考えていた。
官僚の力を活用した近代化を目指していた大久保は、行政や財政を司る官僚機構に注目し、各国の内務省と大蔵省について調査させた。1873年(明治6年)3月、官僚機構を活用した近代化のモデルを求めてドイツを訪問した大久保は、ビスマルクの下で、官僚機構を通した近代化を推進している様子を見て強い影響を受けた。
同年5月、帰国した大久保は、フランス第二帝政の国内省(内務省[注釈 2])[7]と、プロイセン王国の帝国宰相府(1879年に帝国内務省に再編[8])[9] をモデルとして、1873年(明治6年)11月10日、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省を設立し[1]、内務卿に就任した。
内務省は当初、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を有していた。
内務省ハ国内安寧人民保護ノ事務ヲ管理スル
所其事務ヲ支分シテ六寮一司ト為ス
勧業寮 警保寮 戸籍寮 駅逓寮 土木寮 地理寮 測量司
その後、農商務省・逓信省など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道[注釈 3])の分野に限られるようになったが、戦前は各省の総合出先機関的性格が強かった道府県庁を直接の監督下においていたため、地方行政を通じて各省の所管事項にも直接または間接に関与し、内政の中心としての地位を保ち続けた[注釈 4][11]。特に、文部省は内務省によって事実上支配下に置かれていた[12]ため、日本の教育行政は内務省が主導していた[注釈 5][13]。
元内務官僚で、内務大臣も務めた後藤文夫は、各省庁に対する内務省の影響力の理由の一つとして、地方団体に対する監督権(特に地方財政監督権)の存在を指摘している。これにより、内務省の所管事項であった土木や衛生は勿論のこと、文部省・農林省・商工省・交通行政関係者に対しても内務省の立場を非常に強くしていたという[14]。このほか内務省は地方財務監督権(原案執行、起債認可、継続費の認可)も持っており、各省庁は何をするにしても、内務省の同意と協力を得なければならなかった。
昭和時代
満洲事変や支那事変(日中戦争)を経て戦時体制に入ると、防空事務・国土計画の他に、国民精神総動員運動などの国民運動の指導、監督が新たに所管に加えられた。1938年(昭和13年)1月11日には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。
1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与える一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。
1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁、樺太庁、警視庁、各府県の特別高等警察(特高警察)は内務省の下部組織であった。
国民精神総動員運動が叫ばれた時代には、民間人主導の精神運動の地方組織が、内務省の統括下にある市町村役場とその指導下にあった町内会や部落会に依存しなければ、事実上運動ができない限界を逆手にとって、次第に内務官僚の意向が重視されるようになり、1938年(昭和13年)7月29日には内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に、精神運動に対する企画と指導の権限を与えることが決定した。これによって正式に精神運動は、内務省主導で推進されることになった。
内務省は精神運動の地方組織として、道府県庁内に精神運動の主務課(総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課など)を新設し、町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会、五人組、十人組、隣保組)の指導などの実践網の整備に乗り出した。これらの実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟が実施する形をとっていたが、実際には内務官僚と警察官の主導によって推進されており、のちの大政翼賛運動における内務省の指導力の強さの源泉となるものだった[15]。
1938年(昭和13年)7月30日、産業報国運動の中央指導機関として産業報国連盟が発足するが、指導力不足によって機能せず、政府は1939年(昭和14年)4月28日に、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を全国の知事宛に発し、道府県知事(東京は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成することを指示した。これによって中央機関である産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成したが、これによって内務省は産報運動の指導権を掌握することになった[16]。
敗戦後
日本の敗戦後、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた[17]。1945年(昭和20年)8月24日、政府は「警察力整備拡充要綱」を閣議決定し、帝国陸軍・海軍と憲兵の解体によって、治安維持の全責任を内務省・警察が担うことを決めた[18]。
- 警察官数を現在の定員(9万2713人)の2倍にする[18]。
- 騒擾事件・集団的暴動・天災などに対処するため、集団的機動力をもつ「警備隊」(2万人を常設し、必要あるときは4万人を一般警察官によって編成する)を設置する。陸海軍と憲兵なき後、現在の警察の装備では鎮圧が困難なので、軽機関銃・自動短銃・小銃・自動貨車(トラック)・無線機などの武器や器材を整備して、「武装警察隊」を設置する[18]。
- 海軍なき後の領海内警備のために、水上警察を強化(1万人)する[18]。
以上3つがその計画であり、警察を軍隊の代わりにすることを意図していた。1945年(昭和20年)9月7日、内務省は陸軍省・海軍省と協議し、復員軍人を警察官に吸収する計画を立てた。警備隊・武装警察隊・水上警察の上級幹部として、陸軍大学校・海軍大学校出身者と、優秀な憲兵将校を2,000人採用し、警部補には陸軍士官学校・海軍兵学校出身者を充てることがその内容であった[18]。
特高警察は大幅な拡充を計画し、「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である[18]。
政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを企図していた。1945年(昭和20年)10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否した[18]。
1945年(昭和20年)10月4日、GHQは特別高等警察や政府による検閲(日本における検閲を参照)、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。
廃止
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選に移行されるなど、地方行政が大きく転換された。同年末、GHQの指令を受けて内務省は廃止された。
内務省最後の日、内務官僚の後藤田正晴は内務省が解体・廃止されることに憤慨して、「内務省を復活させなければ、死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、後に警察庁でコンビを組む渡部正郎は、前述の発言は後藤田のものだと証言している[19]。
内務省廃止の式典の最後に、中堅・若手の内務官僚が集まり「必ず将来、内務省を復活させます」と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている[20]。ほか、内務省廃止の日に最後の別れの酒宴が開かれた席上で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一が、内務省の先輩達に対して「私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます」と誓ったとされる[21]。
注釈
- ^ 警保局は全国の警察機能を統括する部局であり、内務省解体後、その機能は警察庁に引き継がれたため、警保局長は、現在では概ね警察庁長官に相当する。現在においても、警察庁長官は各省の事務次官と同等の待遇であり、次官連絡会議の構成員である。
- ^ 邏卒総長であった川路利良は、1872年(明治5年)司法省の西欧視察団の一員として欧州各国の警察を視察。帰国後、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。
- ^ その他宗教一般の管理は1913年(大正2年)文部省へ部局「宗教局」とともに移管した。
- ^ 当時、内務省と農林省のどちらに入省すべきか迷っていた後藤田正晴は、内務官僚から「後藤田君、農林行政というのは農林省がやっているのではない。キミの言う住民に接しての農林行政をやっているのは内務省だ」と忠告されたという。それを聞いた後藤田は「そうかもしれん」と思い直して、内務省への入省を決めた。
- ^ 当時の文部省は道府県庁を通じて、内務省のコントロール下にあり、他省庁や軍部、マスコミからは、「内務省文部局」と揶揄されていた。
- ^ 内務省から総務省に名称変更する案もあった。
出典
- ^ a b c d 太政官『内務省ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治6年11月10日。太00237100 。
- ^ a b c d e f g アジア歴史資料センター. “用語詳細 : 内務省”. 国立公文書館. 2024年4月閲覧。
- ^ 『内務省』 - コトバンク
- ^ 『機』 2013年9月号 No258 藤原書店 p.16~17
- ^ 西川伸一「戦前期法制局研究序説-所掌事務,機構,および人事-」『政經論叢』第69巻第2-3号、明治大学政治経済研究所、2000年12月30日、139-170(152)、2017年10月1日閲覧。
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- ^ 大霞会 1971b, pp. 897, 947.
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- ^ NHK 『さかのぼり日本史』 明治編 第四回 「官僚国家への道」
- ^ 『内務省職制及事務章程』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治7年01月 。
- ^ 『警察官僚の時代』, p. 24.
- ^ 『戦後日本の国家保守主義』, p. 9.
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- ^ 大霞会 1971c, p. 185.
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- ^ a b c d e f g 大日方純夫 『天皇制警察と民衆』 日本評論社 p.256~259
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- ^ 『戦後日本の国家保守主義』, p. 8.
- ^ 日本労働年鑑 第25集 1953年版 第三部 労働政策 第四編 行政機構の改革・人員整理および勤務評定制の施行
- ^ 「“内務省復活”に警告 総司令部 旧官僚の策動を重視」 読売新聞 1951年(昭和26年)12月28日
- ^ 『中央公論』第96巻 第7号 中央公論社 p180~182
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- ^ 『四次防と自衛隊』 日本共産党中央委員会出版局編・発行 p.95
- ^ 『国会月報』 1997年10月号 586巻 国会資料協会 p.75~78
- ^ 『国会月報』 1997年12月号 588巻 国会資料協会 p.5
- ^ 『世界 (雑誌)』 2017年9月号 岩波書店 p.114-115
- ^ 1府6省に再編案 自民国家戦略本部が改革案 共同通信 2008年4月23日 20:45
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