中山家 中山家の概要

中山家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/16 13:20 UTC 版)

中山家
菖蒲菱あやめびし [1]
本姓 藤原北家師実流花山院家庶流
家祖 中山忠親
種別 公家羽林家
華族侯爵
出身地 山城国平安京
主な根拠地 山城国平安京
東京市麹町区有楽町
東京市赤坂区青山南町
著名な人物 中山愛親
中山慶子
中山忠能
中山忠光
支流、分家 今城家(羽林家・子爵)
長崎中山氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

歴史

封建時代

藤原北家花山院家の支流である権中納言花山院忠宗の子中山忠親を祖とする[3]。家号は別荘のあった洛東の中山(現在の左京区黒谷町から岡崎周辺)に由来する[4]。初代忠親は内大臣まで登ったが、子孫は権大納言を極官とする羽林家として続いた[3]。また旧家であり[5]外様である[5]

江戸時代の家禄は200石[注釈 1]。家臣として諸大夫に大口家(加賀守、伊勢守)、に田口家があった[5]。中山家は平堂上家の中で唯一諸大夫が置かれていた家だった[6]菩提寺廬山寺[5]。屋敷は石薬師御門にあった[5]

江戸時代後期の当主の愛親は、尊号一件光格天皇国父典仁親王に太上天皇の尊号を奉ろうとしたのに徳川幕府により妨害・阻止された事件)の際に幕府老中松平定信と対決したが、正親町公明と共に閉門に処された[3]。徳川幕府亡後の明治17年(1884年)4月に明治天皇は典仁親王90年忌を期して典仁親王に慶光天皇の尊号を贈った。この際に中山愛親にも従一位が追贈され、勤王のため幕府と対決した功が賞された[7]。その娘績子仁孝孝明明治の3代の天皇に典侍として仕えて正三位まで登っている[3]

明治天皇外祖父中山忠能侯爵

愛親の曾孫中山忠能は、明治天皇の生母である典侍中山慶子の父にあたり、その立場を生かして幕末に尊皇攘夷派の公卿として長州藩と連帯して京都政界で活躍したが、文久三年八月十八日の政変禁門の変で長州藩が京都政界において失脚した後に失脚した。しかし孝明天皇の崩御に伴う大赦で復権し、同志の公卿岩倉具視中御門経之らと共に王政復古や討幕の密勅の作成などにあたって倒幕に貢献した[3][8]

忠能の七男・忠光も尊皇攘夷派の急先鋒で天誅組の首領となり、大和国で倒幕の挙兵を行ったが、幕府軍の討伐を受けて壊滅し、忠光自身も逃れた先の長門国長府藩領で俗論派により暗殺された(天誅組の変[3]。徳川幕府滅亡後、明治天皇より忠光の尊皇討幕の義挙が賞され、明治3年に従四位[9]、ついで明治31年に正四位[10]が追贈された。

明治以降

明治維新後、忠能は新政府において議定、輔弼、神祇官知事、神祇伯などを歴任[8]。明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると中山家も公家として華族に列した[11][12]。同年9月には王政復古の功により忠能に賞典禄1500石が永世下賜された[8]

明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で280石6斗[13][注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄及び賞典禄と引き換えに支給された金禄公債の額は3万9655円1銭5厘[15]。当時の忠能の住居は東京市麹町区有楽町にあった[15]。当時の家扶は石山友誠[15]

明治17年(1884年)7月7日、華族令の施行で華族が五爵制になったのに伴い忠能は侯爵に叙せられた[2]。叙爵内規では旧公家からの侯爵は清華家と定められており、羽林家の中山家は該当しなかったが、忠能の維新の功[2]、および忠能が明治天皇の外祖父にあたるという関係から特例で侯爵に叙せられた[16]。忠能は位階勲等も従一位大勲位まで登っている[17]

忠能の孫の2代侯爵孝麿東京市日本橋区麹町区の区長を務めた後、宮内省で宮内書記官や東宮侍従長東宮大夫宮中顧問官、帝室会計審査局長などを歴任した[17]。大正4年の御大禮の際には側近に奉仕し、その功績で旭日大綬章を授けられた[17]

孝麿の子3代侯爵中山輔親の代の昭和前期に中山侯爵家の邸宅は東京市赤坂区青山南町にあった[17]

その子忠敬(大正12年1月1日生)の平成前期の住居は東京都港区高輪[18]。忠敬の長男には忠和(昭和26年10月14日生)、忠和の長男には忠明(昭和60年4月27日生)がある[18]

中山家は藤原一族の男系血統を絶やさずに守り続けている家のひとつ。同じ藤原一族の中で男系血統が途絶えた際には度々養子を輩出するバックアップの面で重要な役割を果たした家で、清華家の大炊御門家、摂家の一條家も血統上は元を辿れば中山家に通じることになる。

歴代当主


注釈

  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の中山家領は、山城国葛野郡上山田村のうち105石余、山城国乙訓郡石倉村のうち18石余、山城国乙訓郡井之内村のうち75石余であり、合計3村・200石。
  2. ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[14]

出典

  1. ^ 御祭神・由緒 | 三峯神社
  2. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 323.
  3. ^ a b c d e f "中山家". 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  4. ^ 太田 1934, p. 4294.
  5. ^ a b c d e 太田 1934, p. 4295.
  6. ^ 浅見雅男 1994, p. 174.
  7. ^ 京都市. “中山愛親表彰碑”. 京都市歴史資料館 情報提供システム フィールド・ミュージアム京都. 2022年11月27日閲覧。
  8. ^ a b c "中山忠能". 朝日日本歴史人物事典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  9. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.1
  10. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 二』(国友社、1927年)p.183
  11. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  13. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 8.
  14. ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  15. ^ a b c 石井孝太郎 1881, p. な之部.
  16. ^ 浅見雅男 1994, p. 99.
  17. ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 49.
  18. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 251.


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