サイレンススズカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 13:20 UTC 版)
競走馬としての特徴・評価
レースぶりに関する特徴・評価
スタートから先頭に立って後続との差を徐々に大きく引き離し、直線に入っても衰えない末脚を発揮して逃げ切るというレーススタイルを身上としていた。デビュー当初、陣営は将来を見据えて「抑える競馬を覚えさせたい」という意見で一致しており、新馬戦で橋田は上村に「できれば中団につけ、馬込みに入れて控える競馬をしてほしい」と指示を出した[83]。しかし、このレースでサイレンススズカはスタートからゴールまで馬なりで勝利し[83]、香港国際カップのレース後に武は橋田に「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言した[46]。
5歳となってから出走した全7戦では、全てのレースでスタートから1000メートルまでの通過タイムが57~58秒を記録し、これは普通の馬であれば非常に速いペースとなり、たとえ1800メートルの距離であっても上がり[† 16] は直線で失速することが多くなる[62]。このようなペースとなった場合追い込み馬の場合は上り35秒の脚を使えば逃げ馬をとらえることができるという計算になる。ところが、サイレンススズカにとって前半58秒台というのは楽な馬なりでのペースになり、後半の上がりも36秒台でまとめるため、そうなると後続馬は上がりを34秒台、もしくはそれ以上のタイムの脚で追い込まないとサイレンススズカを捉えることはできないということになる[62]。武豊も金鯱賞後のSports Graphic Numberのインタビューで「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」と語っていた。このような数字的な裏付けについて橋田は、「普通先行馬が行ったきりでゴールインするのは、前半スローペースに落とし、上がりの勝負に持ち込んで勝つんです。でもサイレンススズカは、最初から飛ばしていって、そのまま早いタイムで直線も乗り切ってしまうんです。これは並みの馬のできることじゃありません」と述べている[62]。南井克巳によるとサイレンススズカはゲートを出てからのダッシュが違うとしており、それは「バカみたいにガーッと行くんではなくて、あくまでも自分のペースなんですよ」としており、そのため普通に走っていても並みの馬とは断然違っただろうと述べており、「とにかくすごいスピード。スピード的にホント、他馬とまったく違うスピードで押し切っちゃうんだから」と付け加えている[84]。
距離適性について、橋田は宝塚記念出走前の時点には多少の心配はあったというものの、「2000までは問題ない、2200までも我慢するだろう」と思っていたといい、大きな意味では安心してみていたという[85]。毎日王冠後には、同レースでのメンバー構成での勝ち方から「東京なら左回りだし、2400メートルでも大丈夫じゃないか」と確信し、ジャパンカップへの出走を予定していた[86]。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に(距離3200mの)天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。
小島貞博は、1992年のクラシック戦線において自身が騎乗し、無敗で皐月賞・ダービーの二冠を制した逃げ馬・ミホノブルボンとサイレンススズカの違いについて、「サイレンススズカは典型的な逃げ馬だという気がします」と述べている[87]。小島によるとミホノブルボンはやや仕掛け気味に先頭に立っていたというが、サイレンススズカの場合は楽に先頭に立っているとしており普通の馬であれば最後には掴まってしまうところをサイレンススズカは最後まで掴まらず、逆に伸びているところを見るとこれはもう能力の違いというしかない、と述べている[87]。当初短距離馬として見られていたミホノブルボンは徹底した坂路調教によって長距離のレースを克服したが、小島はサイレンススズカもミホノブルボンと同様に「調教で鍛え上げたからこそ天性の才能に磨きがかかった」と評している[87]。
ライターの柴田哲孝は、サイレンススズカは芝2000m級のレースに関する限りであればシンボリルドルフ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー、ディープインパクトらと比較しても「"彼"こそは日本の競馬史上"最強馬"ではなかったか」と述べており、「もし時間をコントロールすることができたとして、それらの馬を全盛期のコンディションで一堂に介し、2000メートルのレースを行ったとしたら…。おそらく、いや間違いなく、勝つのはサイレンススズカだ。しかも、圧勝するだろう」と断言しており[88]、東京中日スポーツ記者の野村英俊は、ディープインパクトがサイレンススズカの逃げを自ら潰しに行ったら確実に他馬の餌食になるだろうと推測している[89]。
身体面・精神面の特徴
当歳時のサイレンススズカは病気になったことがなく、医者にかかったことがないという健康で丈夫な体質をしていた[7]。上村はサイレンススズカのすごさについて「スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。その辺は、すべてにおいて、これまでの馬よりレベルが2つくらい上でした」と述べている[83]。馬体はデビュー当初はしなやかだけだったが、5歳になってから体重が増えただけでなく肩は広く、胸は厚くなって筋肉も強靭になり、スピードと持久力が向上した[90]。肉体面の成長に加えてそれまでは闘争本能のみに頼ってがむしゃらに走っていただけであったが、武豊が騎乗するようになってからその後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなると精神面でも成長を果たした[90]。
橋田はサイレンススズカの気性について「本当に気っ風の良い気性をしてましたね。実に大人しい馬」と述べている[91]。前述の馬体の成長が成長して以降は精神的な落ち着きが目立っていたと振り返っており、かつて野平祐二が調教師として管理したシンボリルドルフを『馬が楽しそうに走っている』と評したことを挙げ、サイレンススズカの走りにも野平の言葉と同じことを感じたという[60]。
稲原牧場社長の稲原一美は、『牝馬みたいに可愛い顔をしていても、内に秘めた気性が激しい』とし、これは非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスから譲り受け、それが後述の旋回癖にモロに出てしまったのではないかと述べ[92]、橋田もこの気性の激しさはサンデーサイレンスから受け継いだものであるという見解を示している[91]。ただし普段は大人しく、人の言うことをよく聞く馬だったといい[92]、上村も気性について「大人しいし、頭もいいし、優等生的な感じ。お坊ちゃんっていう雰囲気もありました」と述べている[83]。カメラマンの本間日呂志は、毎日王冠の直前に雑誌の依頼で武豊とサイレンススズカのツーショットを撮影した際、サイレンススズカがあまりに素直な性格をしていたため驚いたといい、武のいうことも、自身の希望もよく聞いてくれたと述べている[91]。
左回りでの競馬と「旋回癖」
古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。ただし武によれば中山記念を勝利した際、サイレンススズカは直線でモタれた上に手前を変えるのに苦労したことで、後に「左回りのほうがいい競馬をする。競馬をしやすい」と語っている[51]。
左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。旋回癖は当歳時の9月に母・ワキアから離乳されて3日が経った時に寂しさを紛らわすために始めたとされており[92]、狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。
管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ蹄鉄が余りにも早く摩耗するため、蹄を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。
競馬関係者の評価
武豊による評価
武は1999年にSports Graphic Numberが行ったアンケート『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』『最強馬アンケート 私が手掛けた馬編』というアンケートでは双方でサイレンススズカを挙げ、「エルコンドルが活躍するほどスズカの評価が上がる気がして今でもドキドキするんですよ」とコメントした[93]。5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから「古今東西の名馬を集めてレースをした場合に、一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている[94]。2000年に行われたインタビューではサイレンススズカを「サラブレッドの理想だと思う」と評し、「どんなレースでも、最初から抜群のスピードで他馬を引き離していって、最後までそのままのいい脚でゴールに入ったら、それが一番強いわけでしょう。そういう馬は負けるわけがありません。絶対能力とは、そういうことですよね。その理想を、サイレンススズカという馬は追及していたんです。またその能力を持った馬でした。こういう馬は、めったにいるものじゃありません。何十年に一頭の馬だと思いますよ」と述べた[95]。ディープインパクトのデビュー前の2003年に行われたインタビューでは、「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」と述べており[96]、ディープインパクトが引退した2007年にもサイレンススズカを「理想のサラブレッド」と評し、「どちらが勝つかはわかりませんが、ディープインパクトにとって、サイレンススズカが最も負かしにくいタイプであるとは言えるでしょうね」と述べている[72]。
武はサイレンススズカに対して「『本当にこんな馬がいるんだ』という相棒がやっとできて、夢が広がってきたときに、すべてがプツッと途切れてしまった」とその死を惜しむと同時に、「サイレンスに関しては、『この馬は現時点では世界一だ』という自信があった。あの馬には、普通では考えられない結果を出す力があったんですよ。例えば、GIで2着を3秒離して勝つこともあり得る馬だった」とインタビューで語っている[97][98]。また、2007年に行われたインタビューにおいて、「今でも不意に思い出すことがあります。あんなことになってなかったらなぁって。天皇賞は間違いなく勝っていたんだろうなあとか、そのあとのジャパンカップはとか、ブリーダーズカップも行っていただろうなあとか考えてしまいますね。サンデーサイレンス産駒の種牡馬がいま活躍してるじゃないですか。そういうのを見ると、余計に『いたらなあ』と思います。『きっと、凄い子供が出てるんだろうなあ』って」と述べており[72]、2019年のインタビューでも「(競走中止した天皇賞では)大レコードで、10馬身以上のぶっちぎりで勝っていたと思います」「アメリカへ行ったらどうだったんだろう、ドバイWCに出たら誰もついて来られないんじゃないか、とか。種牡馬としても、日本の競馬史を変える可能性があった」と述べている[99]。また、金鯱賞の翌週、全盛期のナリタブライアンやトウカイテイオーが出てきても負けないかと尋ねられた際は「と、思いますよ」と即答した[100]。
武以外の関係者による評価
サイレンススズカは武以外の競馬関係者からも高い評価を得ている。調教師の橋田は武と同様に前述のアンケートでいずれもサイレンススズカを挙げ、「斤量や、相手、展開などの条件にかかわらず負けないところが強かった」[94]、「今までの競馬の常識を超える馬だった」[93] と評価している。宝塚記念で騎乗した南井克己は、サイレンススズカに初めて跨った宝塚記念前の最終追い切り後に、「この馬の能力は、(自身が主戦騎手を務めた)ナリタブライアンに匹敵する」とコメントした[101]。サイレンススズカを生産した稲原牧場の牧場長稲原美彦はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。前述の『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』では5票が集まり、橋田・武以外には吉田照哉、岡田繁幸、武幸四郎が投票した[94]。
杉本清によると、1998年のジャパンカップ翌日に蛯名正義と京都駅で偶然会った際に「昨日はおめでとう」と声をかけて少し話をしたが、その際蛯名は「ウチの馬も強かったんですけど、すいません、もっと強い馬いますよ」と言われ、「どういうこと?」と聞くと蛯名は「サイレンススズカという馬は、本当に強い馬ですから」と言ったという[81]。杉本はこの時について「毎日王冠でエルコンドルパサーは影さえ踏めなかったですから、ジャパンカップが終わった後なのに、まだ毎日王冠のことを言っていたので驚きでした」と回想しており、この時の蛯名の様子については「あの馬が生きていれば、今後もどれだけ強くなったかわからないのに、本当に惜しいことをした」とサイレンススズカの死を心から悼んでいる様子だったと振り返っている[81]。翌1999年にエルコンドルパサーはフランス遠征を行い、サンクルー大賞優勝、凱旋門賞2着と顕著な成績を残すが、杉本はその遠征後にも「ああいう形で、海外のレースを走るサイレンススズカを見てみたかったなあと、つくづく思いました」と述べている[81]。
他にも、柴田政人は「ファンを魅了する馬だった」[102]、鈴木淑子は「強い逃げ馬がいたらこんなに競馬は面白い、ということを久々に見せてくれた馬だった」と評し[102]、野平祐二は華奢な体型ながらも奇麗な線を持った馬で、「あれだけ軽快に、また非常にスマート、かつ鮮やかに走る馬は他にいないでしょう。鞍上ともマッチして、実に美しい走りをする馬です」[87]、「あんなに美しい格好で突っ走っていって我慢しちゃう馬なんか、過去でもないですよ」と評し、またその存在価値についても、「『片足でも生かせるものなら生かしておきたい』と思う馬だった」と述べている[102]。競馬評論家の井崎脩五郎は「この世で最も強い馬は、ハイペースで逃げ切ってしまう馬である」と述べ、日本ダービーを逃げ切った馬の中で最も前半1200mの通過タイムが速かったのはカブラヤオーの1分11秒8だったことを引き合いに出し、そのカブラヤオーがサラ平地の最多連勝記録「9」を記録していたことでサイレンススズカはカブラヤオーの連勝記録を20年ぶりに打ち破る可能性があった「久々に表れた、ケタ違いに強い馬だった」と述べ、第118回天皇賞での死を「競馬界の宝の損失」として惜しんだ[103]。同じく競馬評論家の大川慶次郎は「私は相当競馬を見てきているが、こういうタイプの逃げ馬は全く見たことがない」とした上で「こんな馬はこれから出るんだろうか、と思うくらい」と述べている[† 17]
投票による評価
2000年に日本中央競馬会がファンを対象に行われたアンケート「20世紀の名馬大投票」においては、25,110票を集めて4位にランクインした。
2012年に行われた優駿実施のアンケート「距離別最強馬はこの馬だ!」の芝2,000m部門では、2位に圧倒的な差を付けて1位となった。数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であった。
2013年、「中京競馬場開設60周年記念 思い出のベストホース大賞」で1位に選出された[104]。
2014年、JRA60周年記念競走(JRA全10場各1レース)当日の特別競走のレース名を決める、『JRA60周年記念競走メモリアルホースファン投票』では、阪神競馬場の記念競走である「宝塚記念」部門でディープインパクト、オルフェーヴルの2頭のクラシック三冠馬を抑え1位となり、当日(6月29日)の第10レースは『永遠の疾風 サイレンススズカカップ』として行われた[105]。
海外遠征への期待
アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意とみられていた左回りで[97]、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。武はそうした事実から、「左回りのほうがよかったから、アメリカの芝戦線に一緒に行きたかったですね」と口にしており[97][98]、「アメリカの2000メートル前後の芝の重賞でスローな流れになったときなんかは、サイレンススズカみたいな馬がビュンビュン飛ばせば絶対に負けないだろうな、と思うことはありますよ」と述べている[106]。ライターの関口隆哉によると、陣営がはっきりと明言をしていたわけではないというものの第118回天皇賞でサイレンススズカが順当に勝利を収めていたとしてもマイルチャンピオンシップ・ジャパンカップに出走する可能性は極めて薄かったといい、毎日王冠に出走する前の9月の時点でサイテーションハンデキャップに出走登録を行っていた[107]。
人気
サイレンススズカの人気が高くなると、馬主の永井は「サイレンススズカは私の馬ではありません。ファンの方、全員の馬なんです」と公言した[7]。永井によるとサイレンススズカの葬儀の日に稲原牧場についた際にはすでに400から500程のファンが集まっていたといい、「大事にしな、あかんな」と改めて思ったと述べている[108]。死後も花や好物であったバナナ[109] を持ってお墓参りをしてくれるファンも多く、永井はそうしたファンに向けて何か記念になるものを持って帰ってもらおうかと、ぬいぐるみやタオル、携帯電話のストラップなどのグッズをあるだけ送ったというが、それでもなお多くのファンがお参りに稲原牧場へお参りに来てくれるという[108]。橋田は「日本人は憎らしいほど強いものを嫌う傾向がある」とし、古馬となってのサイレンススズカは同じように憎らしいほど強い馬だったとしつつも高い人気を集めたことについて、弥生賞での出来事があったことでファンに支持されたのではないかと述べている[110]。
種牡馬としての可能性
サイレンススズカは5歳時のレースで示したそのレースぶりによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。5歳時からすでに橋田や永井のもとへアメリカから種牡馬としての購買のオファーがあり[86]、橋田は公表こそ控えたものの「相当な金額での買い付け希望が出された」とし[86]、「具体的に金額を提示し、『すぐ買う』と言ってきたんですから、これは本物でしょう」と述べている[86]。永井もアメリカから種牡馬としてのオファーが殺到していたことを認め、種牡馬入りさせてまたそこから産駒を預かりたいと考えていたが、「日高の人たちが種牡馬としてのサイレンススズカに期待していましたから、できるなら北海道においてやりたかった」と述べ、オファーをことごとく断ったものの、それでもシャトル種牡馬としての依頼を提示され、『とにかくアメリカにサイレンススズカの血を残してくれ』『何かいい方法を考えてくれ』と依頼されたという[86]。死後には社台グループが以下の追悼コメントを発表し、その死を悼んだ[86]。
まだまだこれからもっと走れると思っていた矢先のことで、非常に残念な思いでいっぱいです。うちの生産馬ではないので詳しいコメントは失礼になりますが、サンデーサイレンスの産駒としては異質なタイプで、その卓越したスピードから生産地では種牡馬として大変期待を懸けていたことは窺われます。残念としか申し上げられません
新聞記者の野元賢一は、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカとアグネスタキオンである」[111][† 18] と評しており、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた[† 19]。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。
死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが1996年に死亡していたため[112]、生産でサイレンススズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟のラスカルスズカであったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれたスズカドリームが2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。
サイレンススズカの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | サンデーサイレンス系(ヘイロー系) |
[§ 2] | ||
父 *サンデーサイレンス Sunday Silence 1986 青鹿毛 アメリカ |
父の父 Halo1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason | Turn To | |
Nothirdchance | ||||
Cosmah | Cosmic Bomb | |||
Almahmoud | ||||
父の母 Wishing Well1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding | Promised Land | ||
Pretty Ways | ||||
Mountain Flower | Montparnasse | |||
Edelweiss | ||||
母 *ワキア Wakia 1987 鹿毛 アメリカ |
Miswaki 1978 栗毛 アメリカ |
Mr.Prospector | Raise a Native | |
Gold Digger | ||||
Hopespringseternal | Buckpasser | |||
Rose Bower | ||||
母の母 Rascal Rascal1981 黒鹿毛 アメリカ |
Ack Ack | Battle Joined | ||
Fast Turn | ||||
Savage Bunny | Never Bend | |||
Tudor Jet F-No.9-a | ||||
母系(F-No.) | 9号族(FN:9-a) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Turn-to 4×5 | [§ 4] | ||
出典 |
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注釈
- ^ 当時はサンデーサイレンスの産駒はまだデビュー前であり、後にサンデーサイレンスの種付け料は2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで値上げされるものの、当時の種付け料は400〜500万円程度だった[2]。
- ^ なお、当初ワキアの繁殖相手にバイアモンが選ばれたことについて、稲原牧場の稲原昌幸は当時を振り返り、「当時のバイアモンは、まさに鳴り物入りだったんですよ。ですから、一番期待している繁殖牝馬にバイアモンを配合するのは当然すぎる選択でした」と語った。クラシックを狙える重厚な血統背景をもつバイアモンに比べ、当時のサンデーサイレンスは1991年に種付けを開始していたものの、産駒はまだデビューしておらず、サンデーサイレンス自身の競走成績は優れていたものの、母系の血統が貧弱であったことから、種牡馬としての真価は未知数であった[3]。
- ^ 2年目の産駒がクラシック競走に出走した1996の皐月賞ではイシノサンデーが優勝して栗毛のサンデーサイレンス産駒初のGI馬となっており、その後も多数のGI馬が誕生している。
- ^ トウカイテイオーも2歳の10月から翌年の10月まで当施設で育成調教を受けた[8]。
- ^ 後にオープンの特別競走2勝を挙げている。
- ^ 菅骨骨膜炎のことで、骨が完全に化骨していない若馬に強い調教を行うと、管骨(第3中手骨)の前面で炎症を起こすことがある。調教初期の若馬に多く見られる[18]。
- ^ 橋田はこのアクシデントの直後、上村が騎乗できなくなった時のことを考えて岡部幸雄に騎乗を依頼していた[22]。
- ^ 生前のサンデーサイレンスは非常に気性が激しいことで知られていた(サンデーサイレンス#競走馬としての特徴・評価も参照)。
- ^ 上村は後に、ダービーにおいて前方へつける作戦で行かせた場合は馬も自分も楽だったかもしれないと推測しているが、この場合でも勝てたとは思っていないといい、仮に作戦通りに逃げた場合の勝ち馬はサニーブライアンではなくシルクジャスティスが勝ったであろうと推測している[30]。
- ^ 掛かる、引っ掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。
- ^ 手前を替える=走行中に回転する四肢の送りを左右で入れ替えること。地面を蹴る軸足が左右入れ替わるため、疲労が軽減される。直線で武は頭を外に向けさせて手前を右から左に替えさせていた[51]。
- ^ こうした経緯に加えて、橋田は「普通で考えたら1000メートルを58秒台で行って2200メートルを逃げ切る馬なんか一頭もいませんから、そこに出走させて逃げ切りを狙うというのは非常識なんですよ。過去にそんな馬は見たことがありませんからね。だけど、私から見たら今のサイレンススズカなら、そうした非常識を非常識でなくしてしまう力があると思うんですよ。換言すれば、常識への挑戦ということですね。この馬なら十分、それが可能だと思いますから」と付け加えている[59]。
- ^ この時橋田は中1週で安田記念への登録も行っていた。安田記念にはマイルCSで敗れたタイキシャトルや武が主戦を務めるシーキングザパールも出走を表明しており、武も「もし出るなら乗る」と発言していたが、結局サイレンススズカの体調面を考慮してこれは回避した[59]。
- ^ ただこの時のエアグルーヴは体調が優れず、調教の結果次第では宝塚記念を回避する可能性もあったため、出走可否については調教師の伊藤雄二の判断を待つという状況になったため、レース数日前までサイレンススズカの鞍上が決まらないという状態となった[60]。しかし、水曜日に行われた最終追い切りでエアグルーヴの調教の結果が同馬の陣営にとって「予想以上にいい」結果だったため出走することとなり、武はエアグルーヴで宝塚記念に臨むこととなった[60]。
- ^ 南井はそれまでサイレンススズカと4度対戦しており、神戸新聞杯でマチカネフクキタルの鞍上を務めていた。なお、ゴーイングスズカの鞍上は芹沢純一が務めることとなった[59]。
- ^ ゴールまでの残り600メートルの距離におけるタイムのこと。
- ^ こう述べたのは1998年の有馬記念当日で、併せて同レースに出走予定のセイウンスカイとの比較を問われ「(もしサイレンススズカが出走していたら)結果はどうあれ、道中はセイウンスカイより絶対に先に行く」と断言していた。
- ^ この記述はディープインパクトのデビュー前になされたものである。
- ^ アグネスタキオンは2008年にリーディングサイアーとなり、父サンデーサイレンスの連続リーディングサイアー戴冠を止めた。上記野元の評価は、アグネスタキオンの初年度産駒が誕生する前年に書かれたものである。
出典
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