婚礼家具
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:08 UTC 版)
この家具祭りへの出品作品として、他産地に先駆けて開発されたのが婚礼家具セットであった。それ以前の業界は、和家具屋は和ダンス整理タンスを・洋家具屋が洋服ダンスを・棚物屋が本棚や下駄箱を、と製造技法や素材が異なっていたためそれぞれ分野に別れており、そこで府中のそれらのメーカー数社が持ち寄り、統一したデザインの和ダンス・洋服ダンス・整理ダンスの新婚生活用の家具3点セットを考案した。1956年(昭和31年)広島県物産見本市での出品以降人気商品となり、他のメーカーも負けじと下駄箱を加えた4点セット・鏡台を加えた5点セットなど新たな婚礼家具セットが開発された。 この流れとは別に、1957年(昭和32年)第2回全国優良家具展において府中のメーカーは初めて出品、第4回大会で宮崎家具製作所が初めて全国家具組合連合会長賞を受賞、第6回大会で土井木工製作所が第7回大会でマルケイ木工がと府中のメーカーが連続で最高賞である通商産業大臣賞を受賞した。入賞は府中の他のメーカーも続いた。 こうした全国規模のコンクールでの入賞により府中家具の品質の部分が有名になったところに、団塊世代の結婚適齢期、高度経済成長、モータリゼーションでもたらされた新たな販売網、とが重なって府中の婚礼家具が爆発的に売れた黄金期が到来した。当時は結婚時に“荷送り”という花嫁の調度品を親戚近所にお披露目する習慣があり見栄や世間体から高級な婚礼家具を欲しており、生活水準の向上もあわさって親たちは競って府中の婚礼家具セットを買い求めた。高級な婚礼家具セットは品薄となるほどで、メーカーは高品質保持に努め、シーズンになると注文を断っていたメーカーもいたという。各メーカーは工場・ショールームを拡張し、さかんに職人の求人活動が行われた。 府中の家具メーカー数社が共同販売を目指して営業所を共同出資で設け、1963年(昭和38年)神奈川県大和市に「府中家具センター」1968年(昭和43年)大阪府豊田林市に「府中家具卸センター」を設立している。当初は大きな展示会場がなかったため小学校の体育館などを借りておこなっていたことから、組合は1968年共同展示場となる“府中家具共同センター”を建設した。バイヤーは“府中詣で”と称し多数訪れ、府中や福山のホテルは満室となったという。 組合調査資料によると1955年当時の出荷額が9億円だったものがピーク時の1975年(昭和50年)出荷額は589億円つまり65倍にまで拡大しており、当時全国平均増加率9倍だった時代に驚異的な成長を遂げている。当時の業界紙『木工界』では「戦後すい星のようにデビューし中央市場を席巻した」、『東京家具業界史』には府中の婚礼家具セットを「家具業界を一つの方向付けした」ものとして評価している。高級婚礼家具の産地として府中の名が定着したのはこの時期である。 府中の共同センターが手狭となったため組合はその隣に新たに共同展示場を建設、これが1976年(昭和51年)竣工した「府中家具協同会館」である。
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