NSDAP党員およびSS将校として
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「ブルーノ・クルト・シュルツ」の記事における「NSDAP党員およびSS将校として」の解説
シュルツは自らの民族的起源がドイツ人にあると信じており、1918年からドイツ学校協会(ドイツ語版)に所属していた。ウィーン大学在学中にはドイツ学生協会(ドイツ語版)に参加し、1927年にはミュンヘンにて人種政策に関する講演を行った。ハンス・ギュンターの提唱する人種理論の普及を行っていた北欧連盟(Nordischen Ring)という政治団体では幹部を務めた。1929年にはドイツ市民権を取得し、また同年より雑誌『民族と人種』(Volk und Rasse)の編集者となった。 こうした活動を知ったリヒャルト・ヴァルター・ダレからの勧誘を受け、1932年には親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)に人種科学広報官(Referent für Rassenkunde)として雇われた。この際、RuSHA勤務中も研究者として活動する自由が認められていた。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)への入党および親衛隊(SS)への入隊は1932年2月頃だった。一般親衛隊の将校として、1940年代初頭に親衛隊大佐まで昇進している。 1932年3月、RuSHA広報官となったシュルツは、SSや突撃隊(SA)の将校に対する人種学研修を行った。1934年からは常勤職員としてRuSHAの人種学および人種研究局の局長に就任し、1937年まで務めた。また、1934年からは全国農民指導者(ドイツ語版)幕僚部長、帝国内務省(ドイツ語版)人口・人種政策計画委員会委員の職にも就いている。1936年、ドイツ人の血を守るための国家委員会(ドイツ語版)に非常勤委員として参加。アーネンエルベの文献委員会(Schrifttumskommission)にも参加していた。 シュルツはSS将校と大学教員という2つの職を両立させるべく、1941年10月にRuSHAプラハ人種局に属する個人事務所を設置した。第二次世界大戦中、シュルツは占領地(アルザス=ロレーヌ、ポーランド、ユーゴスラビア、スロベニア、ソビエト連邦)の人種の研究に関与し、彼から教育教育を受けた者たちが占領地にて「好ましくない人種」やドイツ系人の子供の選別を行った。こうした活動はいわゆる民族転換措置(ドイツ語版)の一環として行われた。 1943年、前年のヴァンゼー会議でなされた「ユダヤ人問題の最終的解決」に関する決定を受け、シュルツはユダヤ系混血者(ドイツ語版)(Jüdischer Mischling)に関する報告書を作成した。ここで言う「ユダヤ系混血者」とは1935年に法的に定義された用語で、ユダヤ系とのハーフは一種混血者、クォーターは二種混血者と分類されていた。シュルツは報告書の中で「外見上のユダヤ的特性」が見られる二種混血者は一種混血者として扱うべきだと述べていた。ハインリヒ・ヒムラーSS長官やマルティン・ボルマン官房長官はシュルツの見解に賛成していたものの、戦況を鑑みて公的な見解としての採用は見送られた。仮にこの見解が採用されていれば、より多くの人々が断種政策の対象になったとされる。 1944年春、バート・テルツSS士官学校(英語版)に志願し、5ヶ月間の教育を受ける。1944年8月、武装親衛隊の連隊付士官候補生(Standartenoberjunker)となり、1945年1月からはノルトラント師団の一員として戦った。 敗戦後、シュルツは非ナチ化審査において「同調者」(Mitläufer)と分類された。ソ連占領地域において、彼の著書『人種学的測定のためのハンドブック』は禁書として扱われた。彼は起訴を受けなかったものの、1966年夏にはノルトライン=ヴェストファーレン州刑事警察局から判決に対する疑問が2度呈されている。
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