IMF・GATT体制
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第二次世界大戦後は、アメリカの主導で貿易の自由化が進められた。自由・無差別(差別の撤廃)・多国間主義が目標とされ、自由貿易で平和を促進するという意図があった。世界恐慌で途絶えた自由貿易を再開するには、国境を越えた取引を活発にする通貨システムが必要とされた。以前の金本位制に代わるものとして、最も経済力のあるアメリカのドルが金とリンクし、西側各国はドルに対する固定相場制を採用した。アメリカの政策の柱となる国際機関が設立され、国際通貨システムは国際通貨基金(IMF)と世界銀行に担われた。自由貿易の交渉を進める国際機関としては国際貿易機構(ITO)が発案されたが成立しなかったため、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)のもとで進められた。 IMF・GATT体制で戦後の自由貿易は始まり、1950年から1973年にかけて貿易の成長率は平均7.9パーセントとなり、1913年から1950年の平均0.9パーセントを上回った。特に日本とドイツは急速な復興と経済成長をした。GATTでは農業分野やサービス分野は基本的に自由化の対象外であり、工業分野においても、アンチダンピング課税、相殺関税、自発的輸出規制(英語版)、セーフガード措置など、さまざまな例外措置が認められ、各国には貿易自由化による変化を緩和するための政策をとる余地が認められた。各国は、貿易自由化によって不利益を被る産業や階層に対して、補助金の給付や福祉政策などの補償的な措置を講じた。世界大戦・大恐慌・保護貿易によって、世界の貿易量は大幅に減少しており、工業製品の輸出額が第一次大戦前の水準に戻るのは1970年代となる。1970年代以降の貿易自由化ではNIESなど製造業輸出で経済成長をとげる国々があり、1980年代以降には社会主義体制をとっていた中国、ベトナム、インドなどの国々も貿易自由化を開始した。国際協調で貿易自由化を進めるため、それまでの二国間交渉に代わってGATT以降は多国間交渉が行われるようになった。多国間交渉として貿易ラウンドが開催され、ケネディ・ラウンド(1964年-1967年)では平均関税を35%下げた。 ドルと金の固定レートによるIMF体制は1973年で終了した。原因は、ドルを供給するために1960年代にアメリカからドルの流出が続いたことであった。各国がドルと金の交換を求めるためにアメリカの金準備が減少し、アメリカ政府は1971年8月に金とドルの交換を停止する。固定相場制への復帰もされたが一時的であり、以後は変動相場制となった。
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