フランクリン (Franklin, Benjamin)
フランクリンという人は
アメリカ独立宣言の起草者の一人でもあり世界史的にはこちらで有名である。
貧しい石鹸職人でニュー・イングランド(アメリカ新大陸)の移民の子としてボストンで17人兄弟の15番目に生まれる。 初等中学校へ通っていた12歳のフランクリンは兄の印刷所へ見習いに出されるが、どうも兄とは気が合わず20歳で独立して、 1729年にペンシルバニア・ガゼット紙を買収する。経営者兼編集者として活躍しこの新聞を有名にした。
自然科学の研究に興味をもち、1743年のアメリカ学会設立には主役的な貢献をする。 電気に興味をもつのは1746年、スコットランドからきていたスペンス氏の実験を見てからである。 ロンドン王立協会会員の友人コリンソンからガラス管や実験の心得書を送ってもらい、彼の輝かしい経歴はスタートする。 が、経営は人任せになる。
フランクリンの主な経歴
1750年、デュフェイの電気二流体論と反対の電気一流体論を提唱する。 実験装置を自らの理論で改良して静電起電機を作成し、ライデン瓶を用いて電気二流体論を検証していく。 デュフェイのいう樹脂電気で帯電した板状の物質と、ガラス電気で帯電した板状の物質を重ね合わせると帯電がなくなることを発見し、 このことから2種類の電気があるのではなく片方には電気が余分にあり、片方では電気が不足しているのではないか、 両者が接触することにより不足分が補われるのではないかと考え、1種類の電気が平均化していると唱えた。
こんな実験をしている。二人の人がそれぞれ絶縁した台の上に乗り、布でこすったガラス管から電気をもらう。 一人はガラス管、もう一人は布から電気をもらい、二人の指先を近づけていくと片方から相手のほうへ火花が飛び、両方の電気が中和された。
ガラス電気とは電気が過剰な状態、樹脂電気とは電気が不足している状態、過剰と不足が接触すると電気は流体となり、平均化すると流体は流れを止める。 接触しない状態での平均化しようとする力が吸引力、反発力であり、この力が大きいときに火花や電撃が起きるとし、ガラス電気を陽電気、樹脂電気を陰電気とした。 これがフランクリンの電気一流体論である。しかし、一流体論で確定にはまだならず、デュフェイ、シーマーの二流体論とフランクリンの一流体論で論争となる。
1752年、有名な凧による雷の実験をする。 雷が電気現象であることはフランクリン以前にもイギリスのホークスビーなどが推測はしていた。 これを実験によって解明したのがフランクリンの凧あげ実験である。 ライデン瓶で発生する火花は小さな雷と考えたフランクリンは、金属棒をつけた凧をあげ湿った麻ひもを凧糸とし、糸の終端に鍵状の金属をつけ建物にくくりつけた。 凧が雷雲の中に消えていき、ふいに凧糸が、まるで糸の繊維同士が反発しているかのように膨れた。 鉤状の金属に指を近づけるとライデン瓶のときと同じようにパチパチと感電した。鉤状の金属にライデン瓶を接続し、雷を蓄えることに成功する。 電気であることの確認法に体感法をとったというのが現在では考えられないが、こういう実験のもとに今の技術があることは言うまでもない。 フランクリンは助かったが、後日ロシアで同じ実験をしたリヒマン教授は感電死している。 フランクリンの実験は真夏の雷雨の中行われた。ライデン瓶に蓄えられる雷は日によって陽電気の日もあれば陰電気の日もあったという。 18世紀にそんなことまでと、まあビックリである。
1753年、避雷針を発明する。ライデン瓶の実験で先端の尖ったものを近づけると遠距離でも放電することに気づいていたフランクリンは、実は1749年頃に避雷針を作っている。 実用されるのは1752年の実験で雷が電気であるという実証がなされた後ということで、避雷針は当時、フランクリンの棒と呼ばれた。 どこの町でも高い位置にある教会にまず設置され、避雷針は教会の目印になっていった。
ベンジャミン・フランクリン
フランクリンの研究成果はコリンソンを通じてイギリスの学会に送られたが、 当時のアメリカはイギリス本国にとっては未開の地という認識であったため、軽く笑われて終わってしまったという。 フランクリンの名が世に出たのは、フランスのダリバールらが同じ実験に成功して後のことである。 当時のアメリカ大陸でのイギリス、フランス両国の対立を考えると、フランス人によってイギリス学会はフランクリンを認めたことになるのが面白い。 ロンドン王立協会の会員に名を連ねることになる。
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