ABDA司令部とは? わかりやすく解説

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ABDA司令部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 13:29 UTC 版)

ABDA司令部(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部(べいえいらんごうしれいぶ)とは、第二次世界大戦太平洋戦争初期において、アメリカ合衆国America)・イギリスBritish)・オランダDutch)・オーストラリアAustralia)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンド[1]


注釈

  1. ^ ABDA司令部の隷下に、ABDA陸軍部隊、ABDA空軍部隊がある。ABDA海軍部隊 (ABDAFLOAT) 司令官は、合衆国アジア太平洋艦隊長官のトーマス・C・ハート大将で[3]、ハート提督のアメリカ帰国にともないオランダ海軍コンラッド・ヘルフリッヒ中将に交代した[4]
  2. ^ アメリカは独力でフィリピンを防衛できるようにアメリカ極東陸軍アジア太平洋艦隊を増強したが、その目途がたつのは1942年春とされた[6]オレンジ計画)。
  3. ^ a b ABDA攻撃部隊[16]、もしくは連合打撃部隊は、日本においてABDA艦隊と呼称されている[17]
  4. ^ 伝統的なイギリスの戦略では、70日間シンガポール要塞で持ちこたえ、その間にヨーロッパからアジアへ主力艦隊を回航させることになっていた[30]
  5. ^ ブルーク=ポッファムとも[34]イギリス空軍総参謀長だった1940年10月に極東軍最高司令官に任命されたが、三軍(英空軍、英海軍、英陸軍)の反目は相変わらずであった[34]
  6. ^ 東洋艦隊参謀長のアーサー・パリサー少将はシンガポールに残った[40]
  7. ^ 極東方面軍最高司令官の更迭は、ダフ・クーパーがチャーチル首相に進言していた[46]。パウナル陸軍中将は、駐仏イギリス派遣軍司令部の参謀総長だった(ダンケルクの戦いダイナモ作戦[46]。12月23日にシンガポールに到着し、4日後に引き継いだ[46]
  8. ^ 1942年1月1日、アルカディア会談の成果の一つとして連合国共同宣言が出され、これが国際連合国際連合憲章)の基礎となった[47]
  9. ^ アルカディア会談の結果、アメリカ統合参謀本部ギリス参謀長委員会により連合参謀本部が発足した[50]。同時に太平洋戦争会議 (Pacific War Council) も発足したが、こちらはABDA部隊の崩壊で有名無実になった。
  10. ^ ただし全員が納得していたわけでない。アイゼンハワー(参謀本部戦争計画局次長)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と批判した[53]。フィリピンで孤立していたダグラス・マッカーサー将軍はルーズベルト大統領に救援を要請し、反省した大統領はマッカーサーに救援と誓約した上でスティムソン陸軍長官に12月30日の手紙で「危険は承知だが、フィリピン救援の方法を調査してくれ」と依頼した[53]
  11. ^ オランダ植民地時代はセレベス (Celebes) と呼ばれていた。
  12. ^ 蘭巡洋艦(デ・ロイテル、ジャワトロンプ)、英連邦巡洋艦(エクセターホバート)、多国籍駆逐艦[62]
  13. ^ 重巡愛宕第二艦隊旗艦)、高雄摩耶、駆逐艦野分早潮、補給艦。
  14. ^ バタビア沖海戦で沈没した3隻(米重巡ヒューストン、豪軽巡パース、蘭駆逐艦エファーツェン)、蘭印部隊に撃沈された3隻(英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープ[84]。南雲機動部隊により米駆逐艦エドサル (USS Edsall, DD-219) [85]、愛宕などにより米駆逐艦ピート・ハイン (USS Pillsbury, DD-227) や英駆逐艦ストロングホールド (HMS Stronghold) など[86]
  15. ^ ANNZAC戦隊は第44任務部隊に指定され、珊瑚海海戦に参加した[93]

出典

  1. ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 286–296連合国の軍の統一指揮が必要だ
  2. ^ 不吉な黄昏 1995, p. 142.
  3. ^ a b c 太平洋の試練、下 2013, p. 13.
  4. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 35.
  5. ^ a b グレンフェル 2008, p. 67.
  6. ^ a b ニミッツ 1962, p. 15.
  7. ^ ニミッツ 1962, p. 28.
  8. ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 100–105フィリピン、マレー半島でも敗退
  9. ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 108–114英国Z部隊壊滅の意味
  10. ^ a b c d 太平洋の試練、上 2013, p. 291.
  11. ^ a b 太平洋の試練、上 2013, pp. 277–286ドイツをまず全力で叩く方針を確認
  12. ^ a b ニミッツ 1962, p. 32.
  13. ^ a b c d e f 太平洋の試練、下 2013, p. 35.
  14. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 36.
  15. ^ a b 太平洋の試練、下 2013, pp. 38–44オランダ人提督ドールマンと艦隊の最期
  16. ^ a b c d e f ニミッツ 1962, p. 34.
  17. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 148–150ABDA艦隊、編成さる
  18. ^ グレンフェル 2008, p. 134.
  19. ^ グレンフェル 2008, pp. 18–27極東に於ける列強の対立
  20. ^ グレンフェル 2008, pp. 28–30.
  21. ^ a b グレンフェル 2008, pp. 37–38.
  22. ^ a b グレンフェル 2008, p. 39.
  23. ^ ニミッツ 1962, pp. 11–13石油と宥和
  24. ^ グレンフェル 2008, p. 47.
  25. ^ グレンフェル 2008, p. 49.
  26. ^ ニミッツ 1962, p. 13.
  27. ^ グレンフェル 2008, p. 66.
  28. ^ ニミッツ 1962, p. 29.
  29. ^ a b ファレル(2010年)、56頁。
  30. ^ グレンフェル 2008, pp. 56–57.
  31. ^ グレンフェル 2008, p. 78.
  32. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 60–65英艦隊側からの展望
  33. ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 26.
  34. ^ a b 不吉な黄昏 1995, pp. 70–73.
  35. ^ a b 不吉な黄昏 1995, pp. 80–84.
  36. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 21–24, 25–34.
  37. ^ 重巡摩耶 2002, p. 99.
  38. ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 24–25陸海軍作戦協定
  39. ^ グレンフェル 2008, p. 86.
  40. ^ グレンフェル 2008, pp. 96–97.
  41. ^ ニミッツ 1962, p. 30.
  42. ^ 不吉な黄昏 1995, pp. 86–89.
  43. ^ グレンフェル 2008, pp. 108–114敗戦の原因
  44. ^ グレンフェル 2008, p. 116.
  45. ^ a b c d e f グレンフェル 2008, p. 129.
  46. ^ a b c 不吉な黄昏 1995, pp. 112–113.
  47. ^ 太平洋の試練、上 2013, pp. 298–300連合国と同盟国の違い
  48. ^ ファレル(2010年)、58頁。
  49. ^ a b c ファレル(2010年)、61頁。
  50. ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 293.
  51. ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 281.
  52. ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 282.
  53. ^ a b 太平洋の試練、上 2013, p. 285.
  54. ^ a b 不吉な黄昏 1995, p. 143.
  55. ^ 太平洋の試練、上 2013, p. 292.
  56. ^ a b c d e グレンフェル 2008, p. 130.
  57. ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 47.
  58. ^ 不吉な黄昏 1995, p. 144.
  59. ^ グレンフェル 2008, p. 128.
  60. ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 14.
  61. ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 38–39蘭印作戦支援
  62. ^ a b c 太平洋の試練、下 2013, p. 36.
  63. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 150–152ジャワ沖海戦の奇妙な勝利?
  64. ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 29–34シンガポール陥落
  65. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 60.
  66. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 109–110.
  67. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 157–162ガスパール海峡の苦悶
  68. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
  69. ^ 聯合艦隊作戦室 2008, pp. 39–43最後の目標ジャワ
  70. ^ 草鹿 1979, pp. 98–101敵蘭印作戦の拠点をつく
  71. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 65–69ポートダーウィンを叩く
  72. ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 37.
  73. ^ ファレル(2010年)、73頁。
  74. ^ a b ファレル(2010年)、76頁。
  75. ^ 太平洋の試練、下 2013, p. 39オランダ領東インドへの日本軍の前進
  76. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 114–116今村軍司令官との約束
  77. ^ 海軍航空隊始末記 1996, pp. 72–74ジャバ南方に敵影なし
  78. ^ 草鹿 1979, pp. 100–102よき獲物! 砲門火を吐く
  79. ^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 43.
  80. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 184–187幻の機動部隊、「空母」撃沈!?
  81. ^ ニミッツ 1962, p. 38.
  82. ^ a b 太平洋の試練、下 2013, p. 48.
  83. ^ a b ニミッツ 1962, p. 40.
  84. ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 44–48パース、ヒューストン撃沈
  85. ^ 草鹿 1979, p. 102.
  86. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 118–119.
  87. ^ 聯合艦隊作戦室 2008, p. 44.
  88. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 116–118英艦隊との決戦を前に
  89. ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 49–55ABDAにかわるもの
  90. ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 23–24.
  91. ^ a b ニミッツ 1962, p. 41.
  92. ^ a b 太平洋の試練、下 2013, p. 55.
  93. ^ ニミッツ 1962, pp. 52–53.


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