ABDA司令部
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ABDA司令部(ABDAしれいぶ, American-British-Dutch-Australian Command, Australian-British-Dutch-American Command, ABDACOM)あるいは米英蘭豪司令部(べいえいらんごうしれいぶ)とは、第二次世界大戦の太平洋戦争初期において、アメリカ合衆国(America)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australia)が東南アジアでの対日本軍事作戦指揮のため設置した多国籍コマンド[1]。
注釈
- ^ ABDA司令部の隷下に、ABDA陸軍部隊、ABDA空軍部隊がある。ABDA海軍部隊 (ABDAFLOAT) 司令官は、合衆国アジア太平洋艦隊長官のトーマス・C・ハート大将で[3]、ハート提督のアメリカ帰国にともないオランダ海軍のコンラッド・ヘルフリッヒ中将に交代した[4]。
- ^ アメリカは独力でフィリピンを防衛できるようにアメリカ極東陸軍とアジア太平洋艦隊を増強したが、その目途がたつのは1942年春とされた[6](オレンジ計画)。
- ^ a b ABDA攻撃部隊[16]、もしくは連合打撃部隊は、日本においてABDA艦隊と呼称されている[17]。
- ^ 伝統的なイギリスの戦略では、70日間シンガポール要塞で持ちこたえ、その間にヨーロッパからアジアへ主力艦隊を回航させることになっていた[30]。
- ^ ブルーク=ポッファムとも[34]。イギリス空軍総参謀長だった1940年10月に極東軍最高司令官に任命されたが、三軍(英空軍、英海軍、英陸軍)の反目は相変わらずであった[34]。
- ^ 東洋艦隊参謀長のアーサー・パリサー少将はシンガポールに残った[40]。
- ^ 極東方面軍最高司令官の更迭は、ダフ・クーパーがチャーチル首相に進言していた[46]。パウナル陸軍中将は、駐仏イギリス派遣軍司令部の参謀総長だった(ダンケルクの戦い、ダイナモ作戦)[46]。12月23日にシンガポールに到着し、4日後に引き継いだ[46]。
- ^ 1942年1月1日、アルカディア会談の成果の一つとして連合国共同宣言が出され、これが国際連合(国際連合憲章)の基礎となった[47]。
- ^ アルカディア会談の結果、アメリカ統合参謀本部とギリス参謀長委員会により連合参謀本部が発足した[50]。同時に太平洋戦争会議 (Pacific War Council) も発足したが、こちらはABDA部隊の崩壊で有名無実になった。
- ^ ただし全員が納得していたわけでない。アイゼンハワー(参謀本部戦争計画局次長)は「上層部がアジアで日本軍の進撃を食い止めることを軽視している。」と批判した[53]。フィリピンで孤立していたダグラス・マッカーサー将軍はルーズベルト大統領に救援を要請し、反省した大統領はマッカーサーに救援と誓約した上でスティムソン陸軍長官に12月30日の手紙で「危険は承知だが、フィリピン救援の方法を調査してくれ」と依頼した[53]。
- ^ オランダ植民地時代はセレベス (Celebes) と呼ばれていた。
- ^ 蘭巡洋艦(デ・ロイテル、ジャワ、トロンプ)、英連邦巡洋艦(エクセター、ホバート)、多国籍駆逐艦[62]。
- ^ 重巡愛宕(第二艦隊旗艦)、高雄、摩耶、駆逐艦嵐、野分、早潮、補給艦。
- ^ バタビア沖海戦で沈没した3隻(米重巡ヒューストン、豪軽巡パース、蘭駆逐艦エファーツェン)、蘭印部隊に撃沈された3隻(英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープ)[84]。南雲機動部隊により米駆逐艦エドサル (USS Edsall, DD-219) [85]、愛宕などにより米駆逐艦ピート・ハイン (USS Pillsbury, DD-227) や英駆逐艦ストロングホールド (HMS Stronghold) など[86]。
- ^ ANNZAC戦隊は第44任務部隊に指定され、珊瑚海海戦に参加した[93]。
出典
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- ^ a b c d 太平洋の試練、上 2013, p. 291.
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- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 110–112遁走したガスパル海峡の英蘭連合艦隊
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- ^ 草鹿 1979, pp. 98–101敵蘭印作戦の拠点をつく
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- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 114–116今村軍司令官との約束
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- ^ 草鹿 1979, pp. 100–102よき獲物! 砲門火を吐く
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- ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 184–187幻の機動部隊、「空母」撃沈!?
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- ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 116–118英艦隊との決戦を前に
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 49–55ABDAにかわるもの
- ^ 太平洋の試練、下 2013, pp. 23–24.
- ^ a b ニミッツ 1962, p. 41.
- ^ a b 太平洋の試練、下 2013, p. 55.
- ^ ニミッツ 1962, pp. 52–53.
- 1 ABDA司令部とは
- 2 ABDA司令部の概要
- 3 編制
- 4 参考文献
- 5 関連項目
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