AWAの結成
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プロモーターとしての活動と共に、その後も少ない試合数ながらも、ルー・テーズなどと並ぶメインイベンターとして人気を得ていたが、政治的な待遇面でNWA会長のサム・マソニック派と衝突し、1960年5月にミネソタ地区のプロモーター達と共にNWAを離脱。ミネアポリスを本拠地とするAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)を結成した。AWA結成以前のミネアポリスのテリトリーはNWAの傘下にあったため、AWAは当時NWA世界ヘビー級王者であったパット・オコーナーを初代AWA世界ヘビー級王者としてNWA脱退後もそのまま継続して認定し(記録上は、オコーナーのNWA王座獲得日である1959年1月9日)、オコーナーをAWA・NWA統一世界王者とした。そして、AWAは王者であるオコーナーにバーン・ガニアとの指名試合を勧告、90日以内にガニアとの試合を行わない場合はAWA王座の剥奪をすると通達。しかし、オコーナー側は正式なオファーが来ていないという理由からガニアとの指名試合を拒否したため、指名試合勧告から90日後にオコーナーのAWA王座は剥奪され、1960年8月に指名挑戦者であったガニアをAWA王者と認定、AWAとNWAの世界王座が切り離され独立をする。 ガニアは1980年7月18日までの20年間に、同王座を通算10回獲得、長期間トップレスラーとして君臨し、プロモーターとしても短期間でNWAの対抗勢力にまでAWAを成長させ、現役レスラーであったことなどから会長にはならなかったものの、AWAの実権を掌握していた。また、国際プロレスとの提携で欧州からビル・ロビンソンや若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントなどをアメリカに迎え入れたほか、1970年代からはプロレスラー養成所「ガニア・キャンプ」を開設。プロレス団体内に自前のジムを持つことは当時のアメリカでは珍しい事例であり、トレーナーにはガニア自身に加えてビル・ロビンソンやコシロ・バジリを起用して、新人選手を育成していた。ガニア・キャンプ出身者にはリック・フレアー、リッキー・スティムボート、サージェント・スローターなど、後にNWAやWWFの世界王者になるなど、後に名声を馳せるレスラーを指導・育成している。 1981年1月18日にはジャイアント馬場3000試合連続出場突破記念試合で馬場の保持するPWFヘビー級王座と自身の保持するAWA世界ヘビー級王座のダブルタイトルマッチを行い(3本勝負で行われ1-1のドローで両者王座防衛)、その年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれている。同年5月、AWA王座を保持したまま引退。団体経営に専念する。 レスリングの名選手だったガニアはレスリングの基礎がしっかりしたレスラーを重用する傾向が顕著で(悪役ですらマッドドッグ・バションやバロン・フォン・ラシクのように「レスリングの出来る」選手が重用された)、ハルク・ホーガンや、ロード・ウォリアーズなどのガニアの引退後に台頭してきた派手なパワーファイターには懐疑的で、彼らの商品価値を見誤り、ホーガンを評価せずAWA世界ヘビー級王座には就かせず、1983年後半にホーガンはビンズ・マクマホンジュニアからの引き抜きによりWWFへ移籍してしまい、ホーガンはWWFで絶大な人気を得ることになる。その後、AWAは1984年から始まったWWFによる全米制圧の最初のターゲットにされ、ホーガンだけでなく多くの主力選手やスタッフ(ブッカーのブラックジャック・ランザ、アナウンサーのジーン・オーカーランド、マネージャーのボビー・ヒーナンなど)を次々と引き抜かれたため、一気に弱体化し、WWFへの対抗手段として、NWA系のプロモーションであるMACWや、CWAとの合弁事業組織「プロレスリングUSA」を立ち上げて、各地で合同興行を開催したが、ジム・クロケット・ジュニアとの確執などでNWAとの共同路線も頓挫して、本拠地であるミネアポリスの観客動員も激減し、AWAの人気は凋落。そして1991年に崩壊する。AWA崩壊後の1993年、ガニアは自己破産した。AWAの崩壊以降、ガニアはミネソタ州知事となったジェシー・ベンチュラの相談役として表に出たこともあったが、プロレス業界との関係を絶っていた。
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