AWA末期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 06:27 UTC 版)
ブランゼルのWWF移籍後は1985年にブルーザー・ブロディと単発抗争。サージェント・スローターのパートナーとなりコンバット・スタイルに変身したこともあった。また、ブッカーとしてオフィス業務も兼任、1986年にはミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)をブッキングし、ベテラン中心だったAWAの選手層を若返らせ、女性ファンや子供ファンの動員を図った。 しかし当時のAWAは、全米侵攻を進めるWWFとのレスリング・ウォーで苦戦を強いられ、観客数が年々激減。興行の規模も選手の顔ぶれも最盛期と比べ大幅にスケールダウンしていく中、グレッグはブッカー兼務の主力ベビーフェイスとしてカート・ヘニングやラリー・ズビスコら新AWA世界王者との抗争を続けた。1987年12月には旧敵アドリアン・アドニスを破り、ESPNでの放送用に新設されたAWAインターナショナルTV王座の初代チャンピオンとなっている。 1989年10月1日、空位となっていたAWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにポール・ダイヤモンドと組んで出場、デストラクション・クルー(ウェイン・ブルーム&マイク・イーノス)との決勝戦に臨んだが、試合に乱入してきたコキーナ・マキシマスの攻撃により足を負傷して引退。以降はオフィス業務に専念しつつ、放送席でのカラー・コメンテーターも担当したが、AWAは1991年に活動を停止した。
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