ARPANETの開発
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「ARPANET」の記事における「ARPANETの開発」の解説
1966年にサザランドの次にIPTO部長に就任したテイラーは更に一歩進めて本格的なコンピューターネットワークを構築しようと試み、ARPA本体から予算を取り付けた。ただしテイラーはリックライダーと同じ音響心理学者でコンピュータ工学のエンジニアではなかった。このためネットワークを実際に構築できる技術者を必要としていた。こうしてマサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所から半ば脅される形でIPTOにリクルートされてきたのがローレンス・ロバーツである。ロバーツは1967年にこれまでリックライダーやサザランド、タイラーが概念として述べてきた事を「指示書」のような形でまとめた。これが"Multiple Computer Network and Intercomputer Communication"である。この「指示書」の中ではARPANETの基本的な「仕様」が以下のように示されている。 負荷共有 メッセージサービス 情報の共有 プログラム共有 遠隔ログイン タイムシェアリングシステム本体にコミュニケーションの管理を行わせる事に対してはコンピュータの管理者から否定的な意見が出されていた。このためロバーツはリンカーン研究所のウェズリー・クラーク(英語版)の助言を受け入れタイムシェアリングシステムにコミュニケーションの管理を専門に行わせる小さいコンピュータを接続させることにした。この結果開発されたのが、現在のルーターの前身ともいえるInterface Message Processor(IMP)である。 1968年中ごろまでにテイラーはコンピュータネットワークの計画を完成させ、ARPAの承認を得た。そして、契約者となる可能性のある140の組織などに見積依頼を送った。多くのコンピュータ企業はARPAとテイラーの提案を絵空事だとみなして考慮せず、送り返されてきたネットワーク構築の見積もりは12だけだった。ARPAはそこから4社を契約候補に選んだ。同年末には2社に絞り込み、最終的に1969年4月7日、BBNテクノロジーズとネットワーク構築の請負契約を結んだ。BBNでは当初7人のチームを結成しフランク・ハートが指揮した。ARPAの見積依頼は技術的にも詳細で、チームはすぐさまネットワーク接続用のコンピュータを構築できた。BBNの提案したネットワークはARPAの計画に沿ったもので、IMPという小型コンピュータでネットワークを形成してIMPをゲートウェイ(今日のルーター)として機能させ、ローカルなリソースと相互接続するというものだった。各サイトではIMPがストアアンドフォワード型のパケット交換機として機能し、IMP同士はモデムを介して専用線(当初50kbit/s)で相互接続した。ホストコンピュータとIMPは独自のシリアル通信インタフェースで接続された。このシステムのハードウェアとパケット交換ソフトウェアは、9カ月で設計・構築された。 第一世代のIMPはBBNがハネウェルのDDP-516というコンピュータをベースとして構築した。主記憶(磁気コアメモリ)は24キロバイト(拡張可能)で、16チャネルの Direct Multiplex Control (DMC) というDMAユニットを備えていた。DMCはホストコンピュータやモデムとのインタフェースに使われた。フロントパネルのランプ群に加えて、DDP-516にはIMPの通信チャネルの状態を示す24個の表示ランプがある。IMPは最大4台のホストコンピュータを接続でき、最大6台のIMPと専用線で相互接続できる。パケット転送の機構はストアアンドフォワード型として設計された。また、各ルータは2秒毎に経路情報を送信し、最小のトランジットタイムを持つ経路を評価すると共に、0.5秒毎に経路表を各送信先までのトランジットタイムを最小にするように更新する、動的なルーティング・アルゴリズムも実装された。このアルゴリズムは以前にポール・バランが考案していたものであった。 ほぼ同じころ、他の人々も(それぞれ独自に)「パケット交換」について研究を行っており、まず1968年8月5日にイギリス国立物理学研究所 (NPL) が公開デモンストレーションを行った。
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