2007年大統領選の闘い
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「革命的共産主義者同盟 (フランス)」の記事における「2007年大統領選の闘い」の解説
このEU憲法批准に反対し、勝利した反新自由主義・左派グループ(LCR、フランス共産党、緑の党、労働者の闘争など)は、「5月29日全国共同体」(「5月29日」はEU憲法批准反対派が国民投票で勝利した日)を形成して2007年フランス大統領選挙を睨んで左派統一候補を擁立する議論を行い、「全国共同体」は投票で共産党の書記長マリー・ジョルジュ・ビュフェを選出した。しかし、LCRは「共産党の組織力を背景にした多数派工作による選出」と反発した。この混乱を背景に、当初から名前が挙がっていた酪農家でLCRと多くの現場で反グローバリゼーション運動をともにした社会運動家のジョゼ・ボヴェは早々と議論から降りてしまう。しかし、大統領選の左派候補の乱立状況に危機感を抱いたグループによって「ジョゼ・ボヴェは左派の統一候補者になれるし、なるべきだ!」というインターネット上の署名運動が2007年初頭から開始され、ボヴェはこの署名の結果を受けて2007年2月1日に、同年5月に投票が行われる大統領選挙への立候補を表明した。ボヴェ陣営は、立候補にあたって自らを「左派の乱立を解決する候補=左派統一候補」とみなして2007年フランス大統領選挙においてもオリビエ・ブザンスノーを擁立しているLCRに、同候補を下ろして一致してボヴェを推すことを要請するがLCR多数派は「ボヴェは『5月29日全国共同体』での議論において、新自由主義に妥協的な社会党と共産党に曖昧な態度をとって自ら議論を降りた。インターネットの署名がその議論に取って代わることは出来ない」とボヴェ陣営の要請を一蹴した。しかし、LCR反主流派の一部のグループは「左翼統一候補を擁立できなかった全責任は共産党とLCRにある。この両党は自陣営さえ完全に固めることが出来ていない」として、ブザンスノーではなくボヴェを支援した。また、フランス共産党の一部左派活動家は、共産党を離脱してLCRに加盟してブザンスノーの選挙運動に加わるという動きもあった(エヌ県モン・ドリニィでは、共産党の支部が解散して半数がLCRに加盟した)。 大統領選に二度目の挑戦となるブザンスノーは『Nos vies valent plus que leurs profits!-僕達の人生は彼らの収益よりも価値がある!』をキャッチコピーに、政策公約に「富の再分配-フランスの企業収益と労働賃金はすべて国庫に一度納められ、その後全共和国民に平等に(必要に応じて)再配分されるシステムの確立」を最大の柱に「大企業のレイオフの禁止」などを掲げた。また、映画監督ケン・ローチは、ブザンスノーを推薦するメッセージを送った(参考 Ken Loach soutient Olivier Besancenot 動画)。 ブザンスノーは、演説の巧みさでテレビ・メディアへの露出も多く青年層に一定の人気を博し、前回大統領選における極右政党国民戦線のジャン=マリー・ル・ペン候補が決選投票に進出した衝撃から、「左(社会党)の左」支持層が「勝てる候補」に投票するという傾向を示すという「逆風」の中で、約150万票(4.08%)を獲得し、「左の左」の候補の中でも共産党のビュッフェ(1.9%-7位)、労働者の闘争のラギエ(1.34%-9位)、ボヴェ(1.32%-10位)を抜いて12人の候補者中5位につけた(フランスのほとんどの県で5位)。得票率は若干の減少、得票数は前回より約30万票を上乗せしている。LCRは第一次投票の結果が出た直後に、ロワイヤルと右派のニコラ・サルコジの対決となった決選投票において「反右翼」の立場からロワイヤルへの投票を呼びかけ、2007年メーデーを「反サルコジ闘争」と位置づけて街頭デモを展開した。
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