1990年代: ゲイリベレーションの大衆化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 07:34 UTC 版)
「日本における同性愛」の記事における「1990年代: ゲイリベレーションの大衆化」の解説
「日本におけるLGBTの権利」も参照 1990年代に入ると日本でも医学的な分野で動きがあった。米国精神医学会は1973年に同性愛を精神障害として扱わないと決議し、1987年には同性愛の分類自体がなくなっていたが、WHOも1990年に同性愛の分類名を廃止し、「性的指向自体は、障害と考えられるべきではない」とした。そして1993年にWHOは再び「同性愛はいかなる意味でも治療の対象にならない」と宣言した。日本の対応は遅れたが、同性愛団体からの働きかけもあり、1994年、厚生省はWHO見解を踏襲し、文部省も指導書における「性非行」の項から同性愛を除外した。日本精神神経学会も同性愛者団体の働きかけに応じ、1995年にWHOの見解を尊重すると発表した。 また、メディアでも90年前後から同性愛者が積極的に取り上げられるようになったり(後述)、「東京都府中青年の家裁判」などの結果、同性愛者の人権が社会的に認知され始めるようになっていく。また抗議によって辞典や出版物の同性愛者に対する記述なども改善されていった。一例として、著書などで必ず同性愛を取り上げ問題視していた京都大学霊長類研究所長でセクソロジストの大島清は、同性愛は尊重されるべきだとの考えに改めている。 また各地でゲイ映画の上映会などは既にあったが、1992年には第1回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭が開催され、1994年8月28日には日本初のレズビアン&ゲイパレードが催された。パレードはアジアではフィリピン(同年6月)に続き2番目に早い開催だった。学校での講演活動も行われるようになり、トランスジェンダーやインターセックスの団体も登場した。1991年に劇場公開されゲイの生活を4年間追い続けたドキュメンタリー映画「らせんの素描」にも出演した高校教師の平野広朗は、ゲイであることをカミングアウトして授業を行った。1990年代前半には、いくつかの民放ドキュメンタリー番組で、LGBT団体の活動やゲイの教師が取り上げられた。 1992年には学校の性教育授業の副教材、「ひとりで ふたりで みんなと」(小学生用)、「おとなに近づく日々」(中高生用)で同性愛について触れられた(その後、2000年代前半に東京都教育委員会が「不適切教材」としたため廃刊。但し同性愛者の中にもこの教材の同性愛に触れた部分ではなく、過激な性表現に対しては批判的な人はいる)。 1990年代はまた、新興ゲイ雑誌「Badi」と「G-men」が創刊されたほか、全国に多くのゲイサークル、ゲイ団体が誕生した。「Badi」はこれまで可視化されていなかった読者を含むそうしたゲイを誌面で顔が見える形で積極的に紹介した。その頃ネットは既に普及しており、個人で情報発信も行われていたが、これまで顔が見えにくかったゲイがゲイ雑誌という限られた枠内とはいえ、メディアを通して可視化されたのは画期的だった(80年代のゲイ雑誌「さぶ」に、読者のゲイがグラビアモデルを兼ねてインタビューに答える企画はあったが、飽くまでポルノだった)。因みに、薔薇族の2000年1月号(1999年11月発売)のサークルメンバー募集覧には全41通が掲載され、その内、スポーツ系ではバレーボール5件、テニス2件、武術1件、ダイビング1件、バドミントン1件、ボウリング1件、イベント系は8件、音楽系は3件などとなっている。 1990年代以降は、こうした大規模パレードやHIV啓発イベントなどによってゲイリベレーションの大衆化が進行した。また新興ゲイ雑誌の創刊などによって同性愛者のイメージも広がっていった。インターネットも普及した結果、情報量が飛躍的に拡大し、当事者の意識を大きく変えた。
※この「1990年代: ゲイリベレーションの大衆化」の解説は、「日本における同性愛」の解説の一部です。
「1990年代: ゲイリベレーションの大衆化」を含む「日本における同性愛」の記事については、「日本における同性愛」の概要を参照ください。
- 1990年代: ゲイリベレーションの大衆化のページへのリンク