1975年スペイングランプリ
(1975 Spanish Grand Prix から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 08:16 UTC 版)
| レース詳細 | |||
|---|---|---|---|
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| 日程 | 1975年シーズン第4戦 | ||
| 決勝開催日 | 4月27日 | ||
| 開催地 | モンジュイック・サーキット スペイン・バルセロナ |
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| コース長 | 3.790km | ||
| レース距離 | 29周(109.910km) 75周(284.250km・規定周回数) |
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| 決勝日天候 | 晴れ | ||
| ポールポジション | |||
| ドライバー | |||
| タイム | 1'23.4 | ||
| ファステストラップ | |||
| ドライバー | |
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| タイム | 1'25.1(Lap 14) | ||
| 決勝順位 | |||
| 優勝 |
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| 2位 | |||
| 3位 | |||
1975年スペイングランプリは、1975年のF1世界選手権第4戦として、1975年4月27日にモンジュイック・サーキットで開催された。
予選
金曜日の朝にグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション(GPDA)がコースをチェックすると、ほとんどのガードレールがボルトで充分に固定されていない状態だった。それを重くみたGPDAは予選1日目のボイコットを決定。コースインしたのはGPDAに所属していないジャッキー・イクスのみで、その後ヴィットリオ・ブランビラも走行を行った[1]。
翌土曜日、各チームのメカニックがガードレールの修繕を開始。ケン・ティレル自らボルトの締め付けを行ったりして予選開始にこぎつけた。それでもドライバーたちはレースをすることに難色を示していたが、主催者側はレースが行われなければ法的措置も辞さないと通告。また、グアルディア・シビルがモンジュイック・スタジアムに設けられているパドックのマシンを押収するという噂も出て、やむなくボイコットを断念する。午前中はイクスとほか2人だけが走行しただけだったが、午後のセッションで本格的に予選が開始された。エマーソン・フィッティパルディはレースを強硬に拒否し続けたが、その後コースイン。しかし、抗議の意思を示すためにゆっくりと3周走って早々にサーキットを引き上げていった。
予選結果
| 順位 | No | ドライバー | コンストラクター | 1日目 | 2日目 | 3日目 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 12 | フェラーリ | DNP | DNP | 1'23.4 | |
| 2 | 11 | フェラーリ | DNP | DNP | 1'23.5 | |
| 3 | 24 | ヘスケス・フォード | DNP | DNP | 1'23.8 | |
| 4 | 27 | パーネリ・フォード | DNP | DNP | 1'23.9 | |
| 5 | 9 | マーチ・フォード | 1'48.9 | DNP | 1'24.2 | |
| 6 | 18 | サーティース・フォード | DNP | DNP | 1'24.3 | |
| 7 | 4 | ティレル・フォード | DNP | DNP | 1'24.4 | |
| 8 | 16 | シャドウ・フォード | DNP | DNP | 1'24.5 | |
| 9 | 23 | ヒル・フォード | DNP | DNP | 1'24.7 | |
| 10 | 17 | シャドウ・フォード | DNP | DNP | 1'25.0 | |
| 11 | 2 | マクラーレン・フォード | DNP | DNP | 1'25.2 | |
| 12 | 5 | ロータス・フォード | DNP | DNP | 1'25.3 | |
| 13 | 3 | ティレル・フォード | DNP | DNP | 1'25.4 | |
| 14 | 8 | ブラバム・フォード | DNP | DNP | 1'25.8 | |
| 15 | 7 | ブラバム・フォード | DNP | DNP | 1'25.8 | |
| 16 | 6 | ロータス・フォード | 1'32.1 | 1'28.6 | 1'26.3 | |
| 17 | 28 | ペンスキー・フォード | DNP | DNP | 1'26.3 | |
| 18 | 21 | ウィリアムズ・フォード | DNP | DNP | 1'26.4 | |
| 19 | 31 | エンサイン・フォード | DNP | 1'32.5 | 1'26.6 | |
| 20 | 25 | ヘスケス・フォード | DNP | DNP | 1'26.7 | |
| 21 | 30 | フィッティパルディ・フォード | DNP | DNP | 1'27.2 | |
| 22 | 23 | ヒル・フォード | DNP | DNP | 1'27.9 | |
| 23 | 14 | BRM | DNP | 1'38.3 | 1'28.8 | |
| 24 | 10 | マーチ・フォード | DNP | DNP | 1'30.3 | |
| 25 | 20 | ウィリアムズ・フォード | DNP | DNP | 1'54.3 | |
| 26 | 1 | マクラーレン・フォード | DNP | DNP | 2'10.2 |
- DNPは予選不出走。
決勝
E.フィッティパルディを除く25台でレースがスタート。直後の1コーナーでマリオ・アンドレッティのパーネリに押される形となったニキ・ラウダのフェラーリがクレイ・レガツォーニを巻き込んでガードレールにクラッシュ、ラウダがリタイヤ、レガツォーニはピットインする。1周が終わってウィルソン・フィッティパルディとアルトゥーロ・メルツァリオが抗議のためレースを棄権する。17周目にそれまでトップを走っていたアンドレッティがリタイヤ、ロルフ・シュトメレンが首位に立つ。
26周目に入った直後、シュトメレンがドライブするヒルGH1のリヤウイングが脱落してガードレールに激突。その弾みでシュトメレンのヒルGH1の車両は反対側のガードレールを飛び越えて観客席に落下、車両の下敷きになった観客ら4人が死亡[3][4](5人とも[5][6][7])、11人が重軽傷を負った[3]。シュトメレン自身も重傷を負った。この事故により、レースは29周で打ち切りとなり、この時点で首位にいたヨッヘン・マスが優勝。規定周回数(75周)の75%未満でレースが終了したため、獲得ポイントは通常の半分ということになった。ハーフポイント規定の適用はF1史上初で、これは事故に起因する唯一のハーフポイント適用事例である[注 1] 。6位のレラ・ロンバルディは女性F1ドライバー唯一のポイント(0.5点)を獲得している。
事故のひきがねとなったリヤウイング脱落の原因は、カーボン製のリヤウイング・ステーが破損してウイングが車体から外れかかったこと[8]とみられる。
レース結果
| 順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | 周回 | タイム | グリッド | ポイント |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | マクラーレン・フォード | 29 | 42'53.7 | 11 | 4.5 | |
| 2 | 6 | ロータス・フォード | 29 | 42'54.8 | 16 | 3 | |
| 3 | 7 | ブラバム・フォード | 28 | + 1 Lap | 15 | 2 | |
| 4 | 17 | シャドウ・フォード | 28[9] | + 1 Lap | 10 | 1.5 | |
| 5 | 9 | マーチ・フォード | 28 | + 1 Lap | 5 | 1 | |
| 6 | 10 | マーチ・フォード | 28 | + 1 Lap | 24 | 0.5 | |
| 7 | 21 | ウィリアムズ・フォード | 27 | + 2 Laps | 18 | ||
| 8 | 18 | サーティース・フォード | 26 | + 3 Laps | 6 | ||
| NC | 11 | フェラーリ | 25 | 周回数不足 | 2 | ||
| Ret | 23 | ヒル・フォード | 25 | アクシデント | 9 | ||
| Ret | 8 | ブラバム・フォード | 25 | アクシデント | 14 | ||
| Ret | 16 | シャドウ・フォード | 23 | アクシデント | 8 | ||
| Ret | 5 | ロータス・フォード | 23 | サスペンション | 12 | ||
| Ret | 31 | エンサイン・フォード | 20 | トランスミッション | 19 | ||
| NC | 22 | ヒル・フォード | 18 | 周回数不足 | 22 | ||
| Ret | 27 | パーネリ・フォード | 16 | サスペンション | 4 | ||
| Ret | 14 | BRM | 7 | 燃料システム | 23 | ||
| Ret | 24 | ヘスケス・フォード | 6 | アクシデント | 3 | ||
| Ret | 3 | ティレル・フォード | 3 | エンジン | 13 | ||
| Ret | 28 | ペンスキー・フォード | 3 | アクシデント | 17 | ||
| Ret | 25 | ヘスケス・フォード | 3 | アクシデント | 20 | ||
| Ret | 4 | ティレル・フォード | 1 | アクシデント | 7 | ||
| Ret | 30 | フィッティパルディ・フォード | 1 | 撤退 | 21 | ||
| Ret | 20 | ウィリアムズ・フォード | 1 | 撤退 | 25 | ||
| Ret | 12 | フェラーリ | 0 | アクシデント | 1 | ||
| NS | 1 | マクラーレン・フォード | 抗議のため撤退 | 26 |
- ラップリーダー : ジェームス・ハント(Lap1 - 6)→マリオ・アンドレッティ(Lap7 - 16)→ロルフ・シュトメレン(Lap17 - 25)→ヨッヘン・マス(Lap26 - 27)→ジャッキー・イクス(Lap28)→マス(Lap29)[10]
第4戦終了時点でのランキング
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- 注: ドライバー・コンストラクター共にトップ5のみ表示。
脚注
注釈
- ^ ハーフポイント付与は今回を含め2021年度までに6度生じているが、他の5つの事例は降雨によるものである。
出典
- ^ 『オートスポーツ』、p15。
- ^ 『オートスポーツ』、p13。
- ^ a b 『オートスポーツ』、p17。
- ^ 『F1全史 1971-1975』(ニューズ出版、1993年)、p99。
- ^ 『F1速報PLUS VOL.22』(三栄書房、2012年)、p86-87。
- ^ “Spanish GP, Race Report” (英語). Grandprix.com. 2012年1月31日閲覧。
- ^ “特集 1975年スペイングランプリ”. ESPN F1 (2011年12月18日). 2020年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月31日閲覧。
- ^ 『オートスポーツ』、p20。
- ^ イエローフラッグ提示中に追い越しを行ったため1周減算。
- ^ 『F1全史 1971-1975』、p130。
参考文献
- 『オートスポーツ』1975年7月1日号、三栄書房、1975年、11-21頁。
- “The Official F1 website” (英語). 2012年1月31日閲覧。
関連項目
外部リンク
| 前戦 1975年南アフリカグランプリ |
FIA F1世界選手権 1975年シーズン |
次戦 1975年モナコグランプリ |
| 前回開催 1974年スペイングランプリ |
次回開催 1976年スペイングランプリ |
「1975 Spanish Grand Prix」の例文・使い方・用例・文例
- 賃金および物価の統制は 1975 年から施行されている.
- 同国は、1975年に通貨を十進制にした
- 中国の後援する北ベトナム共産軍と米国の後援する南ベトナム軍との長期戦(1954年−1975年)
- 共産主義の拡大の封じ込めは、1947年から1975年までの米国の外交政策の中心的原則であった
- トルコに100万人以上のアルメニア人を殺して、1915年に国境地帯から彼らを強制的に取り除くと認めさせるように1975年に形成された好戦的なマルクスレーニン主義者テロ組織
- 南ベトナムがベトナム戦争終了後暴落する前の、1954年から1975年まで存在した南東部アジアの旧国(ディエンビエンフーのフランスの敗北の後)
- 1954年(ジエンビエンフーのフランス人の敗北の後の)からそれが北ベトナムによって破られて、付加された1975年まで存在した南東のアジアの前の国
- 米国の歴史家で政治哲学者(ドイツ生まれ)(1906年−1975年)
- 米国の画家で、中西部と南部の生活を描いた(1889年−1975年)
- 1964年から1975年までのサウジアラビアの王(1906年−1975年)
- スペインの将軍で、彼の軍隊が1939年にスペインを制圧し、彼の死まで独裁者として支配した(1892年−1975年)
- 英国人の彫刻家(1902年−1975年)
- ドイツの物理学者で、ジェームズ・フランクと共にボーアによって唱えられた静止したエネルギー状態の存在を証明した(1887年−1975年)
- ベトナムの共産主義の政治家で、第二次世界大戦で日本人と戦い、1954年までフランス人と、また1975年まで南ベトナムと戦った(1890年−1969年)
- 1975年以来スペインの王(1938年生まれ)
- ロシアのチェス・マスターで、1975年から1985年まで、ゲイリー・カスパロフに破れるまでの世界チャンピオン(1951年生まれ)
- 黒人イスラム教徒のリーダーで、アフリカ系アメリカ人の自由を求めた活動を行った(1897年−1975年)
- インドの哲学者、政治家で、インド哲学を西欧へ紹介した(1888年−1975年)
- 英国の化学者で、植物の分子構造の研究で知られる(1886年−1975年)
- ロシアの作曲家で、彼の15曲のシンフォニーでよく知られる(1906-1975年)
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