1951年の知事選で初当選とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1951年の知事選で初当選の意味・解説 

1951年の知事選で初当選

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:56 UTC 版)

桑原幹根」の記事における「1951年の知事選で初当選」の解説

1950年10月3日追放解除され翌年4月第2回公選知事選に向け活動始める。中区栄町(現・中区栄)の空き地バラックを建て、これを選挙事務所とした。社長務めていたホテル丸栄一室作戦本部とし、石黒幸市らが陣取った選挙事務長青柳秀夫務めた難物自由党公認をめぐる争いであった桑原早くから大野伴睦佐藤栄作幹事長に渡りをつけ、岡崎勝男にも同期のよしみで手を回したが、地元国会議員頭越ししたのがこじれる原因となった愛知県選出国会議員中、山田佐一支部長江崎真澄10人は元一宮市長の吉田萬次につき、辻寛一草葉隆圓ら5人は桑原についた結局決着はつかず、二人とも公認名乗って選挙戦突入した当時公選法では当選者は有効投票の8分の3を獲得しなければならなかった。候補者は7人。新聞各紙決選投票になるとの予想立てていた。中でも有力とみられていたのが、社会党推薦労組支援受けた副知事桐谷三郎であった1951年4月30日愛知県知事選挙執行候補者7人中最多の票を獲得するが、法定得票数達しなかったため、5月11日2位吉田萬次との決選投票が行われる。開票同日名古屋市除いて県下一斉に行われた即日開票分は吉田475,293票、桑原466,404票で、吉田リードした4月30日選挙名古屋市5万票ほど吉田引き離していた桑原にとって、名古屋開票分が頼みであった翌日吉田との差がじりじりと迫る中、相手陣営田嶋好文の車が選挙事務所の前を「吉田当選当選確実と言って通り過ぎ桑原一時は「取り返しつかないことをした」と思ったという。そこへ中村区の票が加わり逆転吉田をわずか3,670票差でかわし、初当選果たした。 自らの辞職によって繰り上げ選挙2度実施した岐阜県知事武藤嘉門から「次もやるなら、繰上選挙やりなさい」とすすめられ1955年1月17日任期満了待たずして辞職辞職対立候補用意が整う前に選挙持ち込む不意打ち作戦だったとされている。社会党尾張徳川家19当主徳川義親白羽の矢立てるが、本人に受ける気はなく、参議院議員栗山良夫大学講師伊藤武雄らに断られたあと、党県連合会前会長佐藤一平を擁立同年2月15日行われた知事選佐藤破り再選1967年5月10日から1975年2月14日まで全国知事会会長務めた1971年知事選は、フランス文学者で『広辞苑』の共同編纂者新村猛との一騎打ちとなった桑原1,037,290票に対し新村915,477票で、僅差6期目の当選果たした名古屋市内では逆に9票の差をつけられ負けた1973年勲一等旭日大綬章受章1975年2月14日をもって知事退いた引退後政治活動続けた1980年6月行われた衆参同日選挙では、参議院愛知県選挙区から自民党公認立候補した外務官僚大木浩選対事務長務め遊説した1987年愛知県で初の名誉県民となった1991年4月11日心不全のため死去95歳没。同年5月16日には愛知県民葬が営まれた。

※この「1951年の知事選で初当選」の解説は、「桑原幹根」の解説の一部です。
「1951年の知事選で初当選」を含む「桑原幹根」の記事については、「桑原幹根」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1951年の知事選で初当選」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1951年の知事選で初当選」の関連用語

1
12% |||||

1951年の知事選で初当選のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1951年の知事選で初当選のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桑原幹根 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS