1951年愛知県知事選挙とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 1951年愛知県知事選挙の意味・解説 

1951年愛知県知事選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:31 UTC 版)

吉田萬次」の記事における「1951年愛知県知事選挙」の解説

1951年昭和26年4月30日行われた愛知県知事選挙に立候補候補者吉田のほか、元官選知事桑原幹根社会党推薦受けた副知事桐谷三郎、元副知事山内三郎新人の7名。自由党公認決着がつかず、結局吉田桑原がともに党公認名乗ることになった当時は1位でも有効投票数の8分の3を超えないと1位、2位決戦によるという規定があった。新聞当初から決選投票になることを予想しており、1位が桑原2位桐谷というのが大方の読みであったが、結果桑原48票余、吉田37票余、桐谷27票余で、上位2名による決選投票が行われることになった壮絶な一騎打ちとなったこの選挙において、吉田選挙事務長買って出た同郷江崎真澄連日トラック尾張地区から名古屋一円走り回ったが、木曽川河畔砂利道全速走っているときに急カーブトラック荷台から投げ出され気絶し背骨痛めた桑原名古屋市北区を車の天井から首だけ出し回っているときにが当たり、頭のてっぺんから血が噴き出した決選投票5月11日執行開票同日名古屋市除いて県下一斉に行われ吉田475,293票、桑原466,404票と吉田ひとまずリードした翌朝からの開票抜きつ抜かれつ大混戦で、名古屋市12区大部分終了した午前11時頃には桑原追い込みはまず絶望とみられ、吉田歳の声とともに胴上げされた。ところが大票田中村区形勢逆転桑原577,879票、吉田574,209票で全票が終了した。その差わずか3,670票という熾烈極めた戦いであった。吉田敗れたものの「一宮市の九割九分の人が投票してくれた。男と生まれてこんなにうれしいことはない」と言って涙を流して喜んだと言われている。

※この「1951年愛知県知事選挙」の解説は、「吉田萬次」の解説の一部です。
「1951年愛知県知事選挙」を含む「吉田萬次」の記事については、「吉田萬次」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1951年愛知県知事選挙」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1951年愛知県知事選挙」の関連用語

1951年愛知県知事選挙のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1951年愛知県知事選挙のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉田萬次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS