1951年愛知県知事選挙
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「吉田萬次」の記事における「1951年愛知県知事選挙」の解説
1951年(昭和26年)4月30日に行われた愛知県知事選挙に立候補。候補者は吉田のほか、元官選知事の桑原幹根、社会党の推薦を受けた前副知事の桐谷勝三郎、元副知事の山内庫三郎ら新人の7名。自由党は公認の決着がつかず、結局吉田と桑原がともに党公認を名乗ることになった。 当時は1位でも有効投票数の8分の3を超えないと1位、2位の決戦によるという規定があった。新聞は当初から決選投票になることを予想しており、1位が桑原、2位が桐谷というのが大方の読みであったが、結果は桑原48万票余、吉田37万票余、桐谷27万票余で、上位2名による決選投票が行われることになった。壮絶な一騎打ちとなったこの選挙において、吉田の選挙事務長を買って出た同郷の江崎真澄は連日、トラックで尾張地区から名古屋一円を走り回ったが、木曽川河畔の砂利道を全速で走っているときに急カーブでトラックの荷台から投げ出され気絶し、背骨を痛めた。桑原は名古屋市北区を車の天井から首だけ出して回っているときに松の枝が当たり、頭のてっぺんから血が噴き出した。 決選投票は5月11日に執行。開票は同日、名古屋市を除いて県下一斉に行われ、吉田475,293票、桑原466,404票と吉田がひとまずリードした。翌朝からの開票は抜きつ抜かれつの大混戦で、名古屋市12区の大部分が終了した午前11時頃には桑原の追い込みはまず絶望とみられ、吉田は万歳の声とともに胴上げされた。ところが大票田の中村区で形勢が逆転。桑原577,879票、吉田574,209票で全票が終了した。その差わずか3,670票という熾烈を極めた戦いであった。吉田は敗れたものの「一宮市の九割九分の人が投票してくれた。男と生まれてこんなにうれしいことはない」と言って涙を流して喜んだと言われている。
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