1921年 - 1945年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/22 14:00 UTC 版)
「中央館 (京城府)」の記事における「1921年 - 1945年」の解説
1921年(大正10年)10月、日本が統治する朝鮮の京城府永楽町1丁目48番地(現在の大韓民国ソウル特別市中区苧洞1街48番地)に中央館として開館した。興行系統は帝国キネマ演芸で、同館との特約館契約が帝国キネマ演芸の初の京城市場への進出であった。当時は映画館開業ラッシュで、同館のほか、同年には京龍館(のちの城南劇場、練兵町83番地、現在の龍山区南營洞(朝鮮語版)83番地)、翌1922年(大正11年)には仁寺洞に朝鮮劇場(現在の鍾路区仁寺洞130番地、1936年閉館)が開館しており、清渓川を隔てた北側(北村)に團成社(授恩町56番地、現在の鍾路区廟洞56番地、1907年開館)、優美館(鍾路区貫鐡町89番地、現在の貫鉄洞89番地、1912年開館)、朝鮮劇場の3館、同じく南側(南村および龍山)に大正館(櫻井町1丁目26番地、現在の仁峴洞1街26番地、1912年開館)、喜樂館(本町1丁目38番地、現在の忠武路1街24番地、1915年開館)、黄金館(のちの國都劇場、黄金町4丁目310番地、現在の乙支路4街310番地、1913年開館)、京龍館、同館の5館が揃い、合計8館が常設映画館としての営業を行っていた。 1923年(大正12年)には、帝国キネマ演芸との特約館契約を終了し、松竹キネマと契約を結んでいる。1925年(大正14年)に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、同館の興行系統は東亜キネマであり、1年足らずの間に切り替わっている。1927年(昭和2年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』では、同館の興行系統は東亜キネマ・帝国キネマ演芸・ユニバーサル映画の3社混成、邦洋混映館とされており、同館の経営は藤本省三の個人経営、支配人は桜庭藤夫が務めている。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』によれば、経営は藤本省三で変わらず、興行系統はマキノ・プロダクションに変わっており、観客定員数が933名であると明示された。『日本映画事業総覧 昭和五年版』では、観客定員数は変わらず、興行系統はマキノに加えて洋画を上映しており、経営が小田勇吉の個人経営、支配人が倉永義雄に代っている。笹川慶子の指摘によれば、1930年(昭和5年)の一時期、数か月だけマキノに加えて帝国キネマ演芸の作品を上映したが、翌1931年(昭和6年)8月28日をもって帝国キネマ演芸が消滅しており、同館での上映が同府内での最後の上映になった。 1940年(昭和15年)前後の時期に東宝文化劇場(京城東寶文化劇場とも)と名称を変更している。1937年(昭和12年)9月10日に4社合併により東宝映画が設立されて以降、同府内には同館のほか、東宝若草劇場(のちのスカラ劇場、若草町41番地、現在の草洞41番地、1935年開館)、京城宝塚劇場(かつての黄金館、のちの國都劇場)と東宝系の映画館が3館存在した。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば、同館は東宝中央劇場と名称を変更しており、当時の同館の経営は大石興行部(大石貞七)、支配人は1930年から変わらず倉永義雄が務め、観客定員数が800名に減っている。『映画年鑑 昭和十八年版』によれば、観客定員数は850名に改められている。1943年(昭和18年)6月16日には、朝鮮映画製作が製作した純然たる朝鮮映画『朝鮮海峡』(監督朴基采(朝鮮語版))が、同館や明治座、京城劇場(のちのソウル劇場)等の同府内5館で上映されている。
※この「1921年 - 1945年」の解説は、「中央館 (京城府)」の解説の一部です。
「1921年 - 1945年」を含む「中央館 (京城府)」の記事については、「中央館 (京城府)」の概要を参照ください。
- 1921年 - 1945年のページへのリンク