1921年-1940年(大会創設から戦前まで)
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「天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会」の記事における「1921年-1940年(大会創設から戦前まで)」の解説
第1回大会は、大日本蹴球協會(現・日本サッカー協会)創設と同じ1921年に「ア式蹴球全國優勝競技會」の大会名で開催された 。全日本選手権の開催とJFA創設の直接のきっかけとなったのは、1919年にイングランドのフットボール・アソシエーション(FA)から日本に贈られた銀杯(FAカップ)であった。この銀製トロフィーは全日本選手権の毎大会ごとのチャンピオンに与えられていたが、太平洋戦争(第二次世界大戦)の末期である1945年に金属の不足により強制供出されたため、現存していない。2011年に日本サッカー協会が創設90周年を記念してFA銀杯復刻を計画し、FAに復元の許諾を求めたところ、FA側から自ら制作し再度寄贈したいとの申し出があり、これによって66年ぶりにFA銀杯が復活し、天皇杯優勝チームに授与されることとなった。 1921年9月10日に今村次吉の私邸で行われた大日本蹴球協會の第1回理事会において全国優勝競技会の概要が決められ、16日に発表された。第1回(1921年度)の予選は1921年9月から11月にかけて開催され、関東、中部、関西、西部の4地域から20チームが参加した。11月後半に日比谷公園の芝生運動場で行われた全国決勝大会には、棄権した1チームを除いた3チームが参加し、東京蹴球団が初代チャンピオンとなった。 第4回(1924年度)からの全日本選手権は、内務省の主催によりこの年から始まった総合スポーツ大会、明治神宮競技大会(明治神宮大会)のア式蹴球の部を兼ねるようになった。大会の運営はJFAが担当した。 第6回(1926年度)は、内務省主催による明治神宮大会への学生の参加は認められないという横槍が文部省方面から入ったため、全日本選手権と明治神宮大会は切り離され、それぞれ別個の大会として開催される運びとなったが、結局第6回全日本選手権は大正天皇の崩御のため中止された。第7回(1927年度)は再び学生の参加が許されたので明治神宮大会を兼ねる形に戻った。この年から明治神宮大会の開催ペースが毎年から隔年へ変更されたため、明治神宮大会のない年には独立して全日本選手権を行うようになった。 この時代の全日本選手権の覇権を争ったチームはその多くが大学チームだった。大学のリーグ戦や東西対抗王座決定戦といった大会が始まり活況を呈するにつれ、大学チームは全国からチームが集まる全日本選手権よりも、レベルの高いチームが集まる大学リーグ戦に価値を置く姿勢へと変わっていった。たとえば第11回(1931年度)に優勝した東大LBは2軍チームであり、1軍はリーグ戦の開幕に向けた準備に専念していた。この第11回大会からは明治神宮大会のほか、全国地方対抗選手権も兼ねるようになった。 1935年からは明治神宮大会とは別の新たな大会として、全日本総合選手権大会が始まった。この年以降は全日本総合選手権の優勝チームが全日本選手権の公式な歴代優勝チームとされている。FAカップ自体は依然として明治神宮大会の優勝チームに授与されており(1937年第9回大会まで)。全日本総合選手権の優勝チームには日本蹴球協会杯が与えられていた。
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1921年-1940年
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「スーシティ (アイオワ州)」の記事における「1921年-1940年」の解説
スーシティは1920年の国勢調査で人口は71,227人に成長し、アメリカ合衆国で99番目の都市になった。1932年と1933年に農夫達が農業生産物価格の低下に抗議して食料の積み出しを妨げるストライキを行い、市内を暫く占拠した。スーシティに本拠を置く州兵第133歩兵連隊が知事によって2週間招集され、アイオワ州チェロキーでストライキの警備にあたった。
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