15-17世紀
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1400年9月、オワイン・グリンドゥール(オウェン・グリンドゥル)の率いるイングランド支配に対する反乱が発生した。1403年まで、ハーレフなどほんの一握りの城塞がなお反乱軍に抵抗していたが、城は包囲攻撃に耐えるための装備が不十分でかつ要員不足であり、駐屯隊には、盾3枚、兜8頭、槍(ランス)6本、手袋10組、それに銃4丁しかなかった。1404年、城はグリンドゥールのものになった。ハーレフは4年間、グリンドゥールの居住地、一家の住居ならびに軍事司令部となった。グリンドゥールは1405年8月にハーレフで第2次議会を開いた。1408年、イングランド軍は将来のヘンリー5世の指揮のもと、ハーレフとその指揮官エドマンド・モーティマーを包囲して、大砲による砲撃を敢行し、外壁の南・東の一部を破壊たと見られる。この城取りが不成功となったヘンリーは包囲攻撃の責任者にジョン・タルボットを残し、アベリストウィス城の対処に移行した。物資がいよいよ不足し、またモーティマーならびにその部下の多くが極度の疲労で亡くなると、ハーレフは1409年2月に落城した。 15世紀に、ハーレフはランカスター家とヨーク家の対抗派閥の間で勃発した薔薇戦争として知られる一連の内戦に巻き込まれた。1460年、ノーサンプトンの戦いのすぐ後、王妃マーガレットは城に逃れ、そうして1461から1468年にはウェールズの反攻拠点となり、城はマーガレットのランカスター支持派により、ダフィッド・アプ・イエアン (Dafydd ap Ieuan) の指揮のもと、ヨーク朝のエドワード4世に対抗して保守されていた。その自然の防御および海による補給路のおかげで、ハーレフは持ちこたえると同時に、他の要塞地が陥落するにつれ、ついにはランカスター派の支配下にある最後の主要拠点となった。城は地方一帯の軍事基地になり、1464年に作戦が立案されると、1466年にリチャード・タンストール (Richard Tunstall) がハーレフからの攻撃を開始し、1468年にはジャスパー・テューダーがフランスの援軍とともに上陸すると、デンビー(英語版)の町を襲撃した。テューダーの登場により、エドワード4世はウィリアム・ハーバート(英語版)に、多分総勢1万人もの軍隊を動員して、ついに城を掌握するよう命じた。ヨーク派のペンブルック伯ハーバートの軍に包囲され、およそ1か月の包囲攻撃の後、要塞の小守備隊は1468年8月14日に降伏した。この包囲戦が「メン・オブ・ハーレフ(英語版)」の歌に思いを吹き込んだと評されている。 17世紀の清教徒革命では、イングランド内戦が1642年にチャールズ1世の国王派と議会派の間で勃発した。ハーレフはどうやら1468年の包囲戦の後に修繕されておらず、地元の巡回裁判所に使用されたゲートハウスを除いて完全に荒廃していた。1644年、プリンス・ルパートは地元の国王派であるウィリアム・オーウェン大佐を城守に任命し、オーウェンは防御設備の修復を任された。1646年6月から議会派軍に包囲され、44人の守備隊がトマス・マイトン(英語版)少将に降伏する1647年3月15日まで長い包囲が続いた。ハーレフ城はその戦争で最後に陥落した本土の王の牙城であり、その日が第一次内戦の終局ともいえる。城はもはや北ウェールズの防衛のために必要ではなく、国王派にこれ以上使われることのないよう、議会はその廃城 (slighting)、 もしくは破壊を命じた。しかし、その命令は部分的に実施さただけで、ゲートハウスの階段が破壊されて城はおおむね使い物にならなくなったが、それが全体的に取り壊されたわけではなかった。城の石材は現地の町の住宅を建てるために再利用された。
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