黒谷和紙用途の変遷
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黒谷で古来生産されてきた和紙は、主に半紙と傘紙であった。渋紙、襖紙、障子紙などに用いられた。やがて、文庫紙、包装紙、雲龍紙などがそこに加わった。明治期以降、洋紙との競合や機械化による実用紙の大量生産により、全国的に手漉き和紙産地は打撃を受けるが、黒谷和紙は伝統的な手漉き和紙の技法を活かして変遷を重ねつつ、苦境を乗り越えてきた。 明治時代には京都府内の各地で養蚕が盛んになり、その関連商品も生産するようになった。1896年(明治29年)、綾部市に創業した郡是製糸会社(現・グンゼ株式会社)からは生糸の包装紙や産卵紙や繭袋紙などの注文を受け、大正時代には黒谷で生産する和紙の6割がグンゼに納められた。黒谷和紙の繭袋は、袋外側の和紙にキハダの煮汁をしみ込ませて防虫効果を施したもので、『紙漉村旅行記』を著した寿岳文章はその手触りや品位を著書のなかで絶賛した。 1917年(大正6年)には大日本帝国陸軍の携帯食である乾パンを入れる紙袋として最高の評価を得、その生産を引き受けた。地産の楮を100パーセントの割合で漉いていた黒谷和紙の強度が評価されたという。軍の依頼は黒谷の経済をおおいに潤し、この頃が黒谷の集落の全盛期であった。 江戸時代以前から生産してきた傘紙は、1955年(昭和30年)頃まで丹後・丹波一帯で広く使用されていた。近隣の他の産地、例えば宮津市畑でも傘紙を漉いたが染色工程は黒谷に委託されるなど、圧倒的な市場シェアを握っていたが、安価なナイロン傘の普及に伴い傘紙の需要は激減した。この窮地の兆しが見え始めていた1954年(昭和29年)、大阪の企業の依頼で家具を磨くサンドペーパーの台紙を生産する機会に恵まれ、黒谷和紙はこれに起死回生をかけて工業用紙の生産に乗り出し、最盛期には生産の6割をサンドペーパーが占めた。しかしこの需要も、昭和40年代に入ると機械漉きを行う他府県の生産地にとって代わられた。 1940年~1941年(昭和15年~16年)頃には京都向けに呉服の値札が主な生産物で、この需要は1950年(昭和25年)頃まで続いた。 これらの品々に替わって、黒谷和紙が昭和30年代から評価を高め、生産を増やした和紙の用途に、はがきや便箋などの民芸的な二次加工品の生産がある。出版物の表装や、文化財の修理修復にも上質な和紙が求められるようになり、和紙の需要が徐々に日用品や産業的なものから美術工芸的な用途へと移行するに伴い、黒谷和紙の種類も多様化していった。なかでも文化財修理用紙の需要は、量的には微々たるものであったが、灰汁抜きに木灰を用いるなど昔ながらの製法による上質な紙を作る技術の伝承に、大きな意義があったという。 現代生産されている黒谷和紙は、楮紙、文庫紙、奉書紙、木版画紙、生漉半紙、札紙、民芸紙、美術紙、紙衣原紙など多岐にわたり、その用途は、書物、版画、はがき、染紙、小間物の加工用品など多種多様なものとなっている。 客層も寺社仏閣や呉服屋から、一般の人々とりわけ女性に需要が伸び、クッションやハンドバッグ、座布団、札入れなどの紙工芸品の製造販売にも注力されている。 黒谷和紙製の商品化は協同組合によって運営される「黒谷和紙工芸の里」が請け負い、生産・加工・販売の独自ルートを通して、国内外に発信されている。
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