高校を卒業後、広島へ
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1971年、高校を卒業した村下は得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入り。当時の部員によると、高校で実績を残した(1969年、中部九州大会平泳ぎ100メートル優勝)とはいえ実業団の中では平凡な選手で、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたら、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められ入部。宴会部長として活躍するが、ハワイアンが自身の音楽志向に合わず、同年9月に同社を退職。合昇平は寮生活を送る中、ギターを弾く時間がほとんどないことに悩んだのだろうと推測している。当時父親は東洋工業に転職して広島市に転居しており、音楽中心の生活を目指し村下も広島へ移った。当時の広島はフォークの聖地で、村下の頭には広島フォーク村の存在があった。村下は浜田省吾と同学にあたり、もう1、2年早く広島に転居して、吉田拓郎在籍時の広島フォーク村に参加していたら、違う音楽人生になっていたかもしれない。 1972年、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科入学。広島に来て間が無い村下には友達がなく、平和公園で一人でギターを弾くことが多かった。間もなく平和公園近くの広島本通木定楽器を見つけ、よく通うようになった。初レコーディングは同店。『エレキの若大将』に憧れ、ベンチャーズに心酔していた村下が、広島でエレキ・ギターをフォークギターに持ち替え、曲作りを始めた理由は、当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォークギターを持たなければ仲間が作れなかったためであった。学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成して多くのフォーク・コンテストに出場し入賞。同年夏、僅か300枚の自主制作シングル「ひとりぽっちの雨の中」を発表。同校卒業後ヤマハ広島店に就職し、二年間、ピアノ購入契約で実績を挙げ、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。時代的にフォークは徐々にバンドサウンド、エレキを含んだロック、ニューミュージック系に形を変えつつあったが、村下は「アコースティックの時代がまた必ず来るよ」と言っていたという。 中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターは、偶然観た村下の演奏に惹かれ、『たむたむたいむ』のパーソナリティーに村下を推薦するなど村下をバックアップした。同番組で、村下は当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む。1978年に那須が担当していた全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼ぶ。1979年には大学を卒業した西田の初レギュラーである同局のラジオ番組『ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局』(1979年10月11日~終了日不明)の音楽コーナーを担当した。プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、「こうなったら独力で何がなんでもカタチにしてみせる!」と資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励む。東京の貸しスタジオは料金の安い夜間だけ借り、既にプロになっていた往年の仲間が駆けつけて伴奏や機器操作を担当して5日間で録音を終え、1979年ヤマハを退社し、同年7月25日、自費制作アルバム 『それぞれの風』を発表。全11曲は当時「思いを寄せていた女性をイメージして作ったものがほとんど」と話していたという。レコーディングの様子はテレビ番組(『青春音楽列島「それぞれの風」』)として放映された。この頃の村下は第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていた。村下は『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募したが、受賞はならなかった。
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