高校サッカー指導者として
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1987年桐蔭学園高等部サッカー部監督となる。 1989年、長谷部茂利が3年生になる1期生から関東大会優勝、インターハイ出場、高円宮杯プレ大会3位、高校選手権ベスト8と好成績を収める。 好成績を受けて、自身を桐蔭学園高校サッカー部へと勧誘した人物から「駒澤大学もなんとかしてくれ」(その人物は桐蔭高校~駒澤大学出身)と依頼される。 李は”私の息がかかった人物に駒沢大学サッカー部監督をさせる”を条件として、桐蔭学園高校の各学年の精鋭部隊を駒澤大学へ進学させ、桐蔭学園と同じ世界観で4年間を過ごしてもらおうという長期強化プランを推進。自身が携わった2期生から有力選手を駒澤大学へ進学させ、駒沢大学でも李が実質的な指導を行った事もある。 この”桐蔭学園~駒澤大学”経由で、林健太郎、栗原圭介、渡邉晋、山田卓也、米山篤志、盛田剛平、小林慶行らがJリーグに進んだ。 桐蔭学園~駒澤大学ルート開拓の理由として、有望な教え子を壊された経験など、大学体育会サッカー部の体質への不信感や反発がある。 「中央大学や明治大学に進学した桐蔭サッカー部1期生は嫌な思いをしたんですよ。中央大学に行った長谷部君も頑張ったそうですよ。一年生時には丸坊主でやかん持って立っていたり…」「駒澤大学では「根性見せろ!」とか「特訓だ!」とか、そういうものがない中でやりましょうということ」 1993年、全国高校総体にてベスト4となっているのが目立つ程度で、いわゆる高校三冠での優勝実績はない。 しかし全国大会での実績以上に、在任9年間で30人以上のJリーガーを育成したように、選手の育成実績が高い。(もっとも李は「プロ養成機関ではなく人間教育をする」スタンスだったと述べている。) しかしこの時期、サッカー部員へのパワーハラスメントを行っていたとの証言がある。 教え子の代表格ともいえる選手、戸田和幸(高卒Jリーガーから日本代表としてFIFAワールドカップ2002に出場)が2019年、自身のブログで高校時代に受けたハラスメントのエピソードを発表した。 試合後監督は他の保護者の方達もいる場所で僕の父親に向かってこう言った。「オタクの息子、頭おかしいんじゃないの?」…この人だけは絶対に許さないと心に誓った。 練習試合の時に足首を酷く捻ってしまい満足に歩く事も出来ない状態だった僕に、「駅まで送って行くよ」とある保護者が声をかけてくれたが、随分離れた場所にいた監督からこっちに来いと言われた。「何を話していたんだ?」「『駅まで送っていくよ』と言ってもらいました」「ふざけるな、歩いて帰れ」というやり取りの末、足を引きずって帰宅。 プレーが上手く出来ないからとゴールポストにヘディングをさせられた。 (なおこのブログ記事に関して、李は同じく教え子である森岡隆三から話を聞かされていたが、「どのようにでも取ることができる話」と自身が開設するyoutubeチャンネルの動画にて回答し、ハラスメントを否定している。) 1996年、9年間務めた桐蔭学園高等部サッカー部監督を辞任。 その後3年間は、日本各地の高校サッカー有力チームの特別コーチを務めた。 1997年9月、清水商業高校サッカー部の臨時コーチ。 1997年12月、古沼貞雄監督に依頼され、帝京高校サッカー部の特別コーチ。(当初10日間の予定がチームが勝ち進み、全国高等学校サッカー選手権大会優勝までチームに帯同。) この期間、指導した選手には小野伸二、小林大悟(以上、清水商業)、中田浩二(帝京高校)らがいる。
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