駅の所在地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:11 UTC 版)
駅は西蟹屋町(現在の南区西蟹屋4丁目8番7号付近)に所在していた。駅の北端から西(広島駅方面)に旅客線、東((貨)東広島駅方面)に貨物線が分岐する「デルタ線」が設置され、分岐点の北側に当時の国道2号(現在の広島県道164号広島海田線、「大州通り」)との踏切が存在したが、1949年4月、国道2号を堀割とし立体交差とするための工事が行われて2本の宇品線ガード(架道橋)が設けられ、踏切は消滅した(しかし後述の通り現在は立体交差は消滅し堀割も埋められている)。また駅の南側には大須口踏切があった。 駅舎・ホームは線路の西側に設置され、1面1線の単式片面構造であった。1945年9月の水害の結果、猿猴川橋梁が架け替えられ線路・ホームがやや東に移設されたため、駅舎も東側に増築された。1966年12月の信号場への降格以降は、ポイント・信号の取り扱いのため国鉄職員が常駐していた。
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駅の所在地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:51 UTC 版)
比治山簡易停車場は、宇品線のルートおよび駅間距離より現在の出汐3丁目9番交差点(かつての出汐踏切)の南側、現在の合同宿舎出汐住宅付近に所在していたと推定される。これに対し、初代「上大河駅」は、現在の同交差点の北側に位置していたと推定され、両駅の西側に広島陸軍被服支廠(現在の広島県立広島皆実高等学校・広島県立広島工業高等学校校地)が立地していた。ホームの構造については、他の宇品線の多くの駅と同様、1面1線の単式片面構造だったと考えられるが、ホーム・駅舎の位置など詳細は不明である。 2代目駅(および前身である比治山駅)は、戦前においては広島陸軍兵器支廠、戦後においては広島大学霞キャンパスの正門右脇(現在の南区出汐1丁目5番)に位置しており、駅の北側には踏切(比治山第三踏切)が設けられていた。戦後期の駅の構造は、ホームと線路の西側に水路を隔てて駅前の小広場と改札口を備えた二階建の駅舎が立地していた。ホームは行き違い設備のない1面1線の単式片面構造で線路の西側にあり、兵器支廠(戦後の広大霞キャンパス)の南西側の壁に接していたが、その敷地も同施設から借用したものであり、乗降客数に比してきわめて狭隘な造りであった。このため、1966年の一般旅客業務の廃止以降上大河駅での折り返し運転に際して、単線駅であるため前部の機関車を後部に付け替えることができず、旅客列車は客車の前後に機関車をつけた双頭列車で運転された。また1966年以後それまでの駅舎は撤去され、1972年の廃止時には、ホーム以外の駅施設は駅員の控所程度のものを残すのみになっていた。
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駅の所在地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:14 UTC 版)
宇品線のルートおよび駅間距離より、かつて「桜土手」と呼ばれた現・県道86号線(黄金山通り)と宇品線が平面交差する丹那踏切(現在の「広島南警察署前」交差点よりやや西側)の南側に位置していた(広島南警察署と福山通運広島宇品支店に挟まれた箇所)と推定される。駅の構造は1面1線の単式片面のもので、線路の東側にホームおよび改札機能のみの駅舎が置かれていた。一時期、駅からは西側に隣接する陸軍運輸部(現在のマツダ宇品工場)への支線が敷設されていたが、詳細は不明である。この駅から宇品駅までの線路は宇品地区が新開地として造成(1890年竣工)された時の東堤防(この土手道はのちに車道として整備され、現在の「海岸通り」となっている)の西側に敷設されたものであり、戦後しばらくの間、この土手道より東側は広島湾であったが、その後の埋め立てにより駅の廃止時には東洋工業(現・マツダ)の宇品東工場敷地となり、現在に至っている。
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