領土問題の交渉過程
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1956年の日ソ共同宣言では歯舞・色丹を平和条約締結後に日本に引き渡す取り決めを結ぶ。日ソ共同宣言の締約によりソ連の賛同を得て日本は国際連合に加盟を果たすことになるが、平和条約交渉における領土問題の取り扱いについて日ソ間で直ちに認識の違いが露呈してくることとなる。1960年、日米安全保障条約の改正によりソ連は領土問題の解決交渉を打ち切り、領土問題は日本側の捏造でしかなく、当初から領土問題が存在しないことを表明(日本政府ならびに外務省は、ソ連は領土問題は解決済みと捉えている、としている)。日本もソ連との間では、まず北方領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。 1973年10月に田中角栄首相とブレジネフ共産党書記長との会談を経て、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する」との日ソ共同声明が出された。日本政府はこの共同声明を根拠に、首脳会談でブレジネフから「領土問題が未解決である」ことの言質を得たと認識しているが、日ソの共同文書には「領土問題が存在している」旨の明記はなされなかった。 1991年4月にゴルバチョフ大統領が来日し、領土問題の存在を公式に認めた。ソビエト連邦の崩壊後の1992年3月に東京で行われた日露外相会談で、ロシア側が北方領土問題において歯舞・色丹を引き渡す交渉と国後・択捉の地位に関する交渉を同時並行で行った上で平和条約を締結することを含めた秘密提案を行ったものの、四島返還の保証はなかったことで日本側は同意しなかった。1993年10月、日露首脳会談が行われ、両首脳は北方四島の帰属問題について両国間で作成された文書や法と正義の原則に基づき解決することで平和条約を早期に締結するよう交渉を続けることを日露共同文書で明記した東京宣言が発表された。1997年11月のクラスノヤルスク合意では、東京宣言に基づいて2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くすことで日露首脳が合意した。 1998年4月、日露首脳会談で日本側は「択捉島とウルップ島の間に、国境線を引くことを平和条約で合意し、政府間合意までの間はロシアの四島における施政権を合法と認める案」を非公式に提案(川奈提案)。1998年11月、日露首脳会談でロシア側は「国境線確定を先送りして平和友好協力条約を先に結び、別途条約で国境線に関する条約を結ぶ案」が非公式に提案された(モスクワ提案)。2001年3月、日露首脳会談で日ソ共同宣言が平和条約交渉の基本となる法的文書であることを確認し、1993年の東京宣言に基づいて北方四島の帰属問題の解決に向けた交渉を促進することを明記した文書に両首脳が合意した(イルクーツク声明)。 日本側は四島返還が大前提であるが、ロシア側は歯舞・色丹の引き渡し以上の妥協はするつもりがなく、それ以上の交渉は進展していない。 2005年11月21日の未明に、訪日したプーチン大統領と小泉純一郎首相(当時)の間で日露首脳会談が行われた。これによって領土問題の解決を期待する声もあったが、領土問題の交渉と解決への努力の継続を確認する旨を発表したのみに留まり、具体的な進展は何も得られなかった。また、ロシア側も、原油価格の高騰による成長で、ソビエト崩壊直後のような経済支援や投資促進のカードを必要としなくなりつつあり、またラトビア、エストニアなどソ連併合時に国境を変更させられた両国との国境問題とも絡み合い、北方領土問題の解決を複雑にしている。 2009年2月18日サハリンでロシアのメドヴェージェフ大統領と日本の麻生太郎総理大臣が会談し、領土問題を「新たな、独創的で、型にはまらないアプローチ」の下、我々の世代で帰属の問題の最終的な解決につながるよう作業を加速すべく追加的な指示を出すことで一致した。 2020年12月、プーチンは領土割譲呼び掛けなどの行為を処罰する刑法改正案に署名しこの条項は8日付けで発効した。最高刑は10年の懲役。
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