革命運動との出会いと軍人への道とは? わかりやすく解説

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革命運動との出会いと軍人への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:28 UTC 版)

蔣介石」の記事における「革命運動との出会いと軍人への道」の解説

1887年10月31日清国浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩や酒を扱う商人蔣肇聡、母は王采玉母親教育熱であったことから、蔣介石6歳から私塾家庭教師習い中国古典学んでいった。実家裕福であったが、父は蔣が9歳のときに亡くなり以後は母の手によって育てられた。当時中国封建的な社会において、母子家庭暮らし厳しいものであった10歳から16歳にかけて生地にあった美の塾で学び1902年には毛美の娘の毛福梅結婚1904年からは浙江省設けられ新制教育機関である学堂で英語や数学学びその後寧波の箭金学堂西洋法律学んだ1905年暮れには生家戻り1906年4月日本へ渡る。この渡日目的東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂関係者しか振武学校入学許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蔣介石はこの渡日で、孫文率い中国同盟会一員で、孫文進め武力革命運動の実践活動中心であった陳其美出会い交友深めた中正紀念堂蔣介石記念館)による「蔣公大事年表」はこの渡日を「公(蔣介石参加革命運動之始」としている。また、日本ノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に蔣介石武力革命実践者となることに大きな影響与えたとする。 保定軍官学校在籍時の蔣介石 日本留学時の蔣介石 高田連隊時代 最初の妻毛福梅(左)、母・王采玉中央)と王采玉抱き抱えられているのが蔣経国 同年冬に帰国し改め保定軍官学校入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月再び日本へ渡り東京振武学校第11期62名の一人として留学した。彼らは2年間の教育課程修めた後、日本の陸軍士官学校には入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務することとなり、1910年12月5日より新潟県高田市現在の上越市)の第13師団歩兵騎兵砲兵連隊配属され実習受けた蔣介石配属されたのは野砲兵第19連隊(長:飛松寛吾大佐)で、小隊長小山田三郎大尉であった。このときに経験した日本軍兵営生活について蔣介石は、中国にあって軍事教育根幹にならなければならないと後に述懐した。 1910年には蔣介石人生大きな影響与えた二つの出来事があった。一つ3月長男蔣経国誕生したことである。そしてもう一つ孫文との出会いである。6月アメリカ渡っていた孫文日本移り東京入った清国政府要求日本政府孫文2週間猶予与えて国外処分としたが、このとき蔣介石東京に赴き、陳其美門弟立場孫文との対面果たしている。この対面蔣介石は、自分中国同盟会一員で、革命には軍事面貢献したい孫文表明したという。この対面当時での孫文蔣介石対す印象は、「まちがいなく革命実行者にはなるだろう」というもので、「革命指導者としての資質があるなどとは考えていなかった。

※この「革命運動との出会いと軍人への道」の解説は、「蔣介石」の解説の一部です。
「革命運動との出会いと軍人への道」を含む「蔣介石」の記事については、「蔣介石」の概要を参照ください。

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