青森歩兵第5聯隊
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「八甲田山死の彷徨」の記事における「青森歩兵第5聯隊」の解説
神田大尉 青森歩兵第5聯隊の中隊長で、雪中行軍の責任者。神成文吉大尉がモデル。将校に士族や華族が多い中、平民出身の彼は自らの努力により、聯隊屈指の有能な将校と認められていた。責任感ある聡明な軍人であり、徳島大尉との約束を非常に大切に思っていた。が、大隊の上官である山田少佐の不適切な干渉に抵抗することができず、悲劇を防げなかった。中隊が散開した最後には江藤伍長を送り出し、雪原で孤立した。万一生還したとしても軍を追われるであろうことに絶望し、舌を噛み切る。直接の死因ではなかったが、そのまま凍死した。 山田少佐 大隊長。山口鋠少佐がモデル。行軍計画を立てた神田大尉に対して指導的立場から助言を行うが、最終的には指揮権を奪取したも同然の形になってしまった。行軍前には第31聯隊を意識するあまり、神田大尉を急かし、充分に計画が練りこまれないまま出発させた。行軍中の命令には不適切なものが多く、深夜に突然の行軍再開を発する、進藤特務曹長の妄言を信じきって行路を間違えるなどして、中隊を遭難させることとなる。部下の犠牲によって生き残ったものの、自責の念から収容された病院で自決した。 倉田大尉 中隊長。山田少佐以下の教導将校団の一員として雪中行軍に参加。毛糸の手袋やゴム長靴など恵まれた装備を所持していたため体力の消耗が抑えられ、神田大尉や山田少佐が正常な判断ができなくなった後も冷静さを保ち、残された数少ない兵を率いて生き残った。モデルの倉石一大尉は黒溝台会戦で戦死。 永野軍医 医官。初日に多数の兵隊が食料を凍らせたことで食事が摂れないことに加えて、低気圧の襲来によって天候が悪化することを懸念して行軍の中止と撤退を進言する。山田少佐が聞き入れなかったことで結果的に彼の危惧はすべて的中してしまった。モデルの永井源吾三等軍医は最後まで隊員の治療を行いながら炭焼き小屋にたどり着くものの、倒れた隊員を救出するために再び外に出て凍死している。 三上少尉 最初に編成された救助隊の指揮を務める。雪に埋まっている江藤伍長を救出するが、自分も含め多数の隊員が凍傷に罹患し撤収を余儀なくされ、大規模な編成による捜索に切り替えることを強硬に主張する。モデルは三神定之助少尉。 江藤伍長 神田大尉と最後まで行動を共にしたが、自分はもう動けないと悟った神田大尉によって斥候を命じられる(=自分を置いて進み、生き残れということ)。直立したまま凍りついた仮死状態で発見されるが、辛うじて意識を取り戻し、救助隊に惨劇の第一報を伝えた。村山伍長と共に山間部出身の1人であり、互いに会話する場面がいくつか見られる。結果としては村山も共に生還しており、知恵を活かしてさまざまな寒さ対策(古新聞を服に挟んで保温したり、唐辛子を靴下に入れて血行を促進するなど)を行ったことが、2人の命を救ったと言える。モデルとなった後藤房之助伍長は故郷に帰って村会議員を務め、1924年に死去。 村山伍長 最後に発見された“生存者”である。江藤と同じく山間部出身者であり、寒さ対策を心得ていた。出発前に、他隊員の冬山に対する警戒心の低さを見て、江藤伍長と共に危惧していた。田代元湯で発見された唯一の生存者であり、四肢を切断しつつも生還した。モデルは村松文哉伍長である。実際の事件においても最後の生存者で、一時危篤に陥ったが生還しており、小説においては比較的忠実な描写が為されたことがわかる。 進藤特務曹長 行軍中に現地出身ということに由来する誤った情報(「このブナの木には見覚えがある、この木からこう進めば田代へたどり着く」というような妄言)を振りまいてしまう。神田大尉は地図を見てそれが誤りだと気づくものの、山田少佐が信用してしまったため、隊はさらに迷走することとなる。中隊散開後は山田少佐と共に駒込川のほとりで救出を待つことになったが、最後は錯乱の果てに川に飛び込んで凍死。モデルは佐藤特務曹長だが、実際の佐藤が遭難にどう影響したのかは不明。出身は岩手。 長谷部一等卒 神田大尉の従卒で、弘前歩兵第31聯隊所属に所属する斉藤伍長の弟。幼いうちに養子に出されたため兄と違い雪山の知識が無かった。神田大尉の絶望の叫びを聞くと力尽きて凍死した。
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