隕石捜索団
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1977年5月10日、藤井と星仲間の大野裕明はチロを連れて仙台市天文台を訪れた。特段の用事などはなかったが、仙台市天文台長の小坂由須人や仙台の星仲間たちと流れ星や隕石などについて歓談したのちに帰途についた。このときの藤井たちには、1つの隕石が地球をめがけて月の距離よりも近い22万キロメートルのところを秒速20キロメートルの速度で進んでいることなど、知る由もなかった。 帰り道の途中、藤井たちは大野の家に立ち寄った。すでに日暮れは過ぎて21時30分頃になっていたが、藤井と大野はチロを車の助手席に残して家に上がり込んだ。車内に残されたチロが、急に大声で吠え始めたのが2人の耳に入ったがそのときはたいして気にも留めなかった。ついで大野の母が、「…いまの気味悪い音なんでしょう…」と2人に質問した。大野はその問いに車のドアをちょっと強めに閉めた音だと答えたが、間もなく「大火球」についての一報が電話で寄せられた。そしてその夜は、各地からの電話が一晩中鳴り続ける事態に至った。 このときの大火球(1977年小国火球)は、満月よりも明るい光度に達して人々を驚かせた。大火球は東関東から東北地方南部に向かって飛び、会津若松市付近の上空で数個に分裂しながらさらに飛行を続けた。落下時の「ドーン」という衝撃音は、福島県を中心とした約15,000平方メートルの範囲に響き渡った。 藤井は目撃者たちの数多い証言から、大火球は大気中で燃え尽きずに隕石となって落ちたに違いないと確信した。隕石の落下地点はさまざまな情報を総合して、山形県の南西端の小国町と新潟県北東部の関川村の間にある県境の山中と推定された。 落下した隕石を求めて、天体の専門家や天文ファン300人で構成される「小国隕石大捜索団」が早速結成された。捜索団の「団長」は、多数の賛成を得てチロに決まった。チロが選ばれた理由は、落下推定地点が山奥でクマなどに遭遇する危険がある上、かつて隕石が落下したとき、「落ちたての隕石は、魚の腐ったような臭いがした」という証言が何件も存在していたためであった。理由は他にもあって、捜索団の誰もがチロのことをよく知っていたためでもあった。 隕石捜索団の活動は、降雪のある時期を除いて毎週日曜日に多くの天文ファンが参加して、3年にわたって続けられた。懸命な捜索にもかかわらず、隕石の行方はわからないまま日々が過ぎていった。そのため、捜索団の参加者から「本当は、隕石は落ちなかったんじゃないのか」という意見が出始めた。その頃、参加者の1人を通して地元の住民から「大正時代に天から降ってきたというおむすび大の黒い石」の話が持ち込まれた。住民の話によれば、1922年5月30日に父親が田植えをしている最中に、突然西の空から大きな音と煙に包まれた物体が落下してきたという。他の村人は驚いて逃げ出したが、父親はその物体を素手で拾い上げてみたところやけどしそうなほどに熱かった。天文学者がその物体を確認したところ、まぎれもなく隕石であることが判明した。長さ13.4センチメートル、重さ1.8キログラムのその隕石は「長井隕石」と命名された。 藤井は早速長井隕石を借り出して、チロにその臭いを嗅がせてみた。チロもクンクンと鼻を鳴らして、その臭いを確かめるように嗅ぎ続けた。さらに隕石捜索団の「活躍」を聞いた他の住民が、自宅にある「おかしな鉄のかたまり」の鑑定を依頼してきた。この鉄のかたまりは1910年頃発見されたもので、その話を聞いた老婆が米一俵と交換したものであった。 捜索団の面々は、この古ぼけた鉄のかたまりを見てみな首を傾げた。しかし、チロのみがいつまでもその臭いを嗅ぎ続け、しまいには鼻先についた小さな鉄片をペロリと飲み込んでしまった。チロのただならない様子を見た村山は、他の参加者の勧めもあって鉄のかたまりを東京に持ち帰って念のため調査することにした。数日後、村山からあの鉄のかたまりはまぎれもない隕鉄だったとの連絡が入った。 重さ10.1キログラムの鉄のかたまりは「天童隕鉄」と命名され、国立科学博物館が200万円で買い取ることになった。チロの率いる隕石捜索団は、大火球の隕石こそ見つけることができなかったものの、今まで学界に知られていなかった2個の隕石を見つけ出すという大きな成果を上げた。
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