関東の旧勢力たちとは? わかりやすく解説

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関東の旧勢力たち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「関東の旧勢力たち」の解説

古河公方家当時男子当主不在で、実質当主足利氏姫であったが、主立った動きをしていない古河城周辺でも戦闘無かったが、当時公方家家中は実質的に北条氏系統家臣実権握っていた。このために本来の公方家臣であった一色義直簗田晴助単独豊臣氏講和行ったが、各々所領安堵はならなかった。その後徳川氏仕えた戦後古河公方家北条であったとされ、古河城を立ち退かされ鴻巣御所古河公方館)に移らされた。翌年秀吉斡旋により、足利頼淳の子足利国朝結婚することになり、古河公方家小弓公方家が統一されることとなった世田谷吉良氏また、小田原北条氏数代に渡る縁戚関係となっていた。古河公方同様に北条氏権威ある家を自身権力基盤支えとして利用していたようであるが、独立性保たれ完全な臣従関係ではなかった。ただし吉良頼康や氏朝などは、北条氏から一字拝領する力関係となっていた。当主吉良氏朝小田原籠城したため戦後所領没収され世田谷城(現・豪徳寺)や蒔田城奥沢城(現・九品仏浄真寺)などの支城廃城となった。氏朝は菩提寺住んだが、のち関東入府した徳川家の家臣となった深谷上杉氏本拠であった深谷城は、当主の上杉氏憲が北条味方して小田原詰めていたため不在の中、留守部隊指揮した秋元長朝らが籠城抗戦行っていたが、最終的に開城した。戦後深谷上杉氏所領失った。氏憲は上杉景勝領する信濃国更級郡逼塞し、死去した子孫池田氏招かれ岡山藩となった。氏憲の従兄弟吉次の子孫は500石の旗本となり江戸幕府仕えた深谷氏)。相模国宅間上杉家北条氏臣従していた。臣従とはいえ宅間殿」と扱われる家格であった小田原征伐の際、宅間規富は北条方に与したため、戦後所領失った。のち徳川家旗本となった宅間氏)。加賀爪上杉家加賀爪政尚若い頃から徳川家康仕えており、徳川家関東移封されると武蔵相模国内に3千石領し数代後には万石超え、一旦大名となっている。 白井長尾家前田利家上杉景勝らの北方軍によって白井城攻められた。長尾政景抗戦したが、本丸以外を落とされ開城した。輝景・政兄弟前田利家預けられたが、のち同族上田長尾家である上杉景勝家臣となった足利長尾家長尾顕長小田原籠城し、本拠陥落しているが、前述のように実母妙印尼活躍により助命され、子孫徳川家臣の土井利勝仕えて家老職となった。 「関東八屋形と言われ諸侯の、小田原征伐後の状態は、以下のようになる宇都宮氏 所領安堵小田氏 豊臣権威背景にした佐竹氏により小田氏治追放家臣菅谷範政浅野長政推挙され徳川家臣となる。 小山氏 所領没収佐竹氏 常陸国統一千葉氏 所領没収長沼氏 (これ以前本家勢力失っていた)支流皆川氏本領安堵那須氏 所領没収となる所を家臣嘆願により存続本家分家共に所領削減結城氏 所領安堵

※この「関東の旧勢力たち」の解説は、「小田原征伐」の解説の一部です。
「関東の旧勢力たち」を含む「小田原征伐」の記事については、「小田原征伐」の概要を参照ください。

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