関東の戦い・隠居期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)
永禄7年(1564年)、里見義堯・義弘父子と上総国などの支配権をめぐって対陣する(第二次国府台の戦い)。北条軍は兵力的には優勢であったが、里見軍は精強で一筋縄にはいかず、北条軍は遠山綱景などの有力武将を多く失った。しかし氏康の攻勢により里見軍は敗れて安房国に撤退した。 同年の永禄7年、太田資正を、その息子と謀って岩付城から追放し、氏康は武蔵の大半を再び平定する。永禄8年(1565年)、氏康は、関東の中原における拠点である関宿城を攻撃、この城は利根川水系等の要地で氏康も重要視していたが、このときは城主・簗田晴助の抵抗に北条軍は撤退した(第一次関宿合戦)。この後、謙信は臼井城や和田城の攻略に失敗、さらに箕輪城が陥落した事もあり、武蔵国の成田氏、深谷上杉氏、上野国の由良氏、富岡氏、館林長尾氏、下野国の皆川氏、上総国の酒井氏、土気(土岐)氏、原氏、正木氏の一部など多くの豪族が北条氏に服従。続いて常陸国の佐竹義重が謙信の出陣要請に難色を示すなど、対北条方の足並みの乱れが生じていた(三戸文書)。そして、永禄9年(1566年)上野厩橋城の上杉家直臣・北条(きたじょう)高広が北条に寝返った事により、上杉氏は大幅な撤退を余儀なくされた。 それに先だって、永禄8年(1565年)8月、氏康は成田氏の忍城攻撃の際に、自らの出陣がこれが最後になることを告げた。また、永禄9年(1566年)5月頃に朝廷から相模守への任官を受けると、これまで用いていた官途名・左京大夫を氏政に譲っている。また、「武栄」と刻まれた独自の朱印を作成し、氏政が出陣などで不在で氏康が代わりに政務を決裁した時にはこの印を用いることとした。 永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。関東において優勢に戦いを進めており、氏政も成長しつつあったためである。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている。 永禄10年(1567年)、氏康は息子の氏政・氏照に里見氏攻略を任せ出陣させる。しかし、正木氏などの国人が里見氏に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。また佐竹領以外の常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により北条氏の勢威が及んだものの、小田氏は永禄12年(1569年)に佐竹氏に大敗し、佐竹氏の勢力は南へ拡大した。
※この「関東の戦い・隠居期」の解説は、「北条氏康」の解説の一部です。
「関東の戦い・隠居期」を含む「北条氏康」の記事については、「北条氏康」の概要を参照ください。
- 関東の戦い・隠居期のページへのリンク