関東の争乱と持政とは? わかりやすく解説

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関東の争乱と持政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 03:26 UTC 版)

小山持政」の記事における「関東の争乱と持政」の解説

鎌倉府絶えると上杉氏勢力強大化した。それに対して多く関東諸将室町幕府鎌倉府再興願った足利持氏遺児成氏が赦免され鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏対立享徳3年1454年)、ついに成氏が側近命じて関東管領上杉憲忠暗殺し関東地方公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱始まった。 この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し享徳4年1455年)には上杉派の同国宇都宮等綱戦っている。後に成氏の信頼得た持政は目覚しい活躍見せ、成氏と「義兄弟契り」を交わすほどの人物となっていく。しかし、形勢幕府積極的に介入してきたことにより成氏は鎌倉維持できなくなり、成氏は持政の影響力が及び、鎌倉府御料所の多い古河本拠地移した以後、成氏は古河公方呼ばれるうになる。 成氏は小山氏結城氏らの支援得て上杉方と対峙した。幕府長禄元年1457年)に成氏にかわる鎌倉公方として、8代将軍足利義政異母兄足利政知関東下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏結城氏らの勢力恐れて鎌倉へは入らず伊豆堀越とどまったその結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏勢力小山氏結城氏勢力均衡保っていた結果であった強大な上杉氏対抗するだけの勢力有するまでに小山氏をしたのは持政の手であった

※この「関東の争乱と持政」の解説は、「小山持政」の解説の一部です。
「関東の争乱と持政」を含む「小山持政」の記事については、「小山持政」の概要を参照ください。

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