関東の上杉方諸将の離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
永禄8年(1565年)2月、越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。 3月、関東の中原を押さえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は岩付城や江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸の佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。 5月、将軍・足利義輝が三好義継・三好三人衆・松永久通らの謀反により、二条御所で殺害された(永禄の変)。輝虎はこの報を伝え聞くと憤慨し、「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった。 6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略した。 9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。 永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国の里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。撃退された要因は籠城方の健闘であったとされる、また足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されている(臼井城の戦い)。 臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東での勢力拡大を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。 永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた(唐沢山城の戦い)。しかし、厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。 4月、輝虎は高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方であった)。
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