関東の知恵者とは? わかりやすく解説

関東の知恵者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 03:49 UTC 版)

太田資清」の記事における「関東の知恵者」の解説

太田氏扇谷上杉家家宰家柄で、資清は上杉持朝仕え家宰と共に相模守護代務めた若年より文武励んだ優れた武将で、関東諸将草木風になびくように彼に従ったという。殊に歌道優れ、後にやはり有名な歌人となる嫡子資長(道灌)よりも、この道では勝っていた。 永享11年1439年)、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実山内上杉家)が対立して永享の乱起きる。資清の主君扇谷家山内家味方し、持氏は幕府軍追討受けて滅びた。この戦いで持氏残党一色氏討った武将に「太田備中守資光」の名がみえ、資清の史料上の初出考えられている。 文安4年1447年)、上杉家願いにより鎌倉公方再興許され、持氏の遺児成氏が鎌倉公方迎えられ山内家当主の上憲忠が関東管領就任した。憲忠が若年だったために、山内家家宰で資清の義父にあたる長尾景仲がこれを補佐した一方扇谷家当主の持朝が持氏を永安寺攻め殺した張本人だったためか、隠居して家督嫡男の顕房に譲った。顕房も若年だったために資清がこれを補佐した。両上杉家支える景仲と資清は「関東不双の案者(知恵者)」と呼ばれた文安4年1447年)の書状道真とあるので、この頃に資清は出家しているようだ

※この「関東の知恵者」の解説は、「太田資清」の解説の一部です。
「関東の知恵者」を含む「太田資清」の記事については、「太田資清」の概要を参照ください。

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