鈴木惠一とは? わかりやすく解説

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鈴木惠一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 19:17 UTC 版)

鈴木 惠一
鈴木 惠一
基本情報
国籍 日本
所属 国土計画
誕生日 (1942-11-10) 1942年11月10日
出身地 日本北海道苫小牧市
死去日 (2025-01-21) 2025年1月21日(82歳没)
死去地 日本埼玉県所沢市
獲得メダル
スピードスケート
世界スプリントスピードスケート選手権大会
1970 総合

鈴木 恵一(すずき けいいち、1942年11月10日 - 2025年1月21日)は、日本スケート連盟副会長、元スピードスケート選手。

経歴・人物

樺太生まれ[1]。その後青森県を経て、5歳から父が王子製紙に勤務していたこともあり北海道苫小牧市に移り住む[2]。このことから北海道出身とされることもある[3]。幼少期には地元の氷結した沼で長靴にブレードを着けた靴でスケートに親しみ[2]、小学6年時にアイスホッケーで本格的にスケートを始めるもクラス対抗のスピードスケート大会で優勝したことでスケート選手を志す[1]

高校は王子製紙への就職も考慮して手に職を付けたいとの思いから北海道苫小牧工業高等学校に進学し[1]、在学中は1960年国体で500mと1500mの2冠、1961年には国体とインターハイの500mと1500mのそれぞれ2冠を達成した[2]。高校卒業後は地元の王子製紙に就職するも日本スケート連盟からのソ連留学の提案を会社から反対された事をきっかけに成績が下降しスケートへの専念を目的に進学を志し退社[4]。ハングリー精神が薄れるとの思いから特待生待遇のなかった明治大学に入学[1]政治経済学部に在籍する[5][1]1964年インスブルックオリンピックで五輪に初出場し5位入賞[6]。また一人で国立競技場のトレーニング室に通い詰め[2]、ウエイトトレーニングで強化を図った[6]

1966年の明治大学卒業後[5]国土計画に所属[7]。1968年と1970年にスピードスケート500mの世界記録を樹立した[8]。しかし、3回出場したオリンピックではいずれもメダルに届かず、悲運の選手として知られる。特に1968年グルノーブルオリンピックでは世界記録保持者として出場し、鈴木は金メダル候補と呼ばれながらも大会直前に開会式出席を優先しスイス・ダボスでの高地コースの大会への出場を断られ代替の西ドイツ・インツェルでも別競技によりリンクが使えず練習不足に陥ったことや、レース直前に小石を踏んでしまいスケートのブレード(刃)が欠け荷物の節減で砥石も不十分で研磨をしきれないといったアクシデントに見舞われ8位に終わった[2][1]

1972年札幌オリンピックでは、リーダーシップと過去2回のオリンピック出場経験から選手団主将に選ばれ選手宣誓も行っている[2][5]。だが、本人は前年に引退を宣言しており[2]、本大会では19位と全く振るわなかった[6]

篠田正浩監督による記録映画『札幌オリンピック』では、鈴木の練習風景、ライバルであったエアハルド・ケラー 西ドイツ/グルノーブル&札幌の500m金メダリスト)との友情、レース、鈴木の実績が詳細に紹介されている[2]

現役引退後はプロ野球西武ライオンズ球団職員に異動し、チーム広報担当に就任[1]。石毛宏典・工藤公康・清原和博等の主力選手とスポンサー企業やマスコミの間を取り持つ調整役を務めつつ[6]、選手の将来を気に掛けながら取材内容を説明・指導するなどし日本プロ野球選手会で当時会長を務めていた中畑清から「12球団の広報で一番」とも評され[1]、各界との交友関係を築き知見を広げその後の指導に活かした[6]。1993年には母校の明治大学でスケート部監督に就任[2]

2006年トリノオリンピックではスピードスケート日本代表監督を務め[7]2006年10月から日本スケート連盟理事を務めた後、副会長を務めた。2010年バンクーバーオリンピックでは日本選手団全体の総監督として[8]、全競技代表の総指揮を執った。また晩年には2020年東京オリンピック聖火リレーにて苫小牧市内のランナーに内定するも歩行に杖が必要となるなど体調の悪化により断念となった[6]

2025年1月21日、腎不全のため埼玉県所沢市の病院で死去した。82歳没[9]

主な競技歴

指導歴

著書

  • 『スピードスケート』 (講談社刊、1974年)

脚注

  1. ^ a b c d e f g h スポーツ歴史の検証 第9回五輪の夢追う最速スケーター鈴木惠一”. 笹川スポーツ財団. 2024年2月11日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 「世界最速」の男 鈴木恵一 - 冬季オリンピック・パラリンピック大会 - スポーツ 歴史の検証 - 知る学ぶ”. 笹川スポーツ財団. 2024年2月11日閲覧。
  3. ^ 鈴木恵一さん死去、82歳 スピードスケート男子500m元世界記録保持者 日本の元祖エース”. 日刊スポーツ (2025年1月21日). 2025年1月22日閲覧。
  4. ^ オリンピアンかく語りき 五輪の夢追う最速スケーター鈴木惠一 - 笹川スポーツ財団
  5. ^ a b c 校友・鈴木惠一氏に「明治大学特別功労賞」を贈呈 -日本スケート界に尽力-”. 明治大学. 2024年2月11日閲覧。
  6. ^ a b c d e f 鈴木恵一さん死去スピード500で世界一 - 北海道新聞2025年1月22日20面
  7. ^ a b 鈴木恵一さん死去82歳札幌五輪で選手宣誓 - 北海道新聞2025年1月22日28面
  8. ^ a b c (4)「駄目なことには駄目といえるようなキャプテンに」/鈴木惠一監督インタビュー”. 明大スポーツ新聞部. 2024年2月11日閲覧。
  9. ^ スケートの鈴木恵一さん死去 500m元世界記録保持者 | 共同通信”. 共同通信 (2025年1月21日). 2025年1月21日閲覧。

外部リンク


鈴木恵一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 09:46 UTC 版)

鈴木 恵一(すずき けいいち、1949年3月21日 - )は、神奈川県出身の元レーシングドライバー、解説者。KTR代表。

経歴・人物

通称はスズケイさん

1968年に日産・ブルーバードでレースデビュー。トヨタ・カローラ使いで活躍し、全日本耐久選手権および全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権でも活躍。また1980年代は富士グランチャンピオンレースにも出場。

1996年・1998年につちやMR2で、全日本GT選手権のGT300クラスのシリーズチャンピオンを獲得している。

1999年、チームメイトで弟子でもあった舘信吾のテスト中の事故死により、レーシングドライバーからの引退を決意。現在はJ SPORTSで放映されているSUPER GTの解説者やGT300のハンコックKTRポルシェの監督を務めている[1]

レース戦績

FJ1300

マシン 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1974年 RSコマF130 ベルコ・98A SUZ FSW
Ret
SUZ
12
SUZ SUZ SUZ
Ret
1977年 マーチ・743 SUZ FSW
SUZ
Ret
SUZ
2
SUZ
SUZ
SUZ

全日本ツーリングカー選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1985 トヨタ・カローラレビン DIV.1 SUG
Ret
TSU
Ret
NIS
Ret
SUZ
8
FSW
1
1986 トヨタ・カローラFX DIV.1 NIS
3
SUG
5
TSU
14
SEN
5
FSW
1
SUZ
1
1987 トヨタ・セリカ DIV.2 NIS
Ret
SEN
2
TSU
1
SUG
Ret
FSW
DNS
SUZ
Ret
1988 ミノルタ トムス トヨタ・スープラ JTC-1 SUZ
6
NIS
4
SEN
8
TSU
5
SUG
Ret
トヨタ・カローラレビン JTC-3 FSW
3
1989 JTC-3 NIS
Ret
SEN
7
TSU
Ret
SUG
7
SUZ
7
FSW
7
1990 TEAM ADVAN JTC-3 NIS
4
SUG
1
SUZ
4
TSU
1
SEN
3
FSW
1
1位 104
1991 JTC-3 SUG
1
SUZ
Ret
TSU
1
SEN
7
AUT
5
FSW
Ret
3位 56
1992 JTC-3 TIA AUT
1
SUG
Ret
SUZ
Ret
MIN
2
TSU
9
SEN
4
FSW
5
11位 55
1993 JTC-3 MIN
3
AUT
4
SUG
4
SUZ
2
TIA
8
TSU
4
TOK
Ret
SEN
2
FSW
2
6位 90

全日本GT選手権

所属チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1994 TEAM TAISAN フェラーリ・F40 GT1 FSW
3
SEN FSW
3
SUG MIN
8
11位 27
1995 ポルシェ・911 GT1 SUZ
Ret
FSW
7
SEN
8
FSW
Ret
SUG MIN
1
20位 7
1996 TEAM TAISAN Jr. GT300 SUZ
1
FSW
2
SEN
Ret
FSW
2
SUG
1
MIN
1
1位 90
1997 GT300 SUZ
4
FSW
1
SEN
3
FSW
1
MIN
3
SUG
2
2位 89
1998 TEAM TAISAN Jr. with つちや トヨタ・MR2 GT300 SUZ
1
FSW
C
SEN
1
FSW
1
TRM
6
MIN
1
SUG
1
1位 106

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年 トヨタ チーム トムス 星野薫
ディディエ・アルゼット
トヨタ・88C C1 20 DNF DNF

関連項目

脚注



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