ディディエ・アルゼットとは? わかりやすく解説

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ディディエ・アルゼット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 07:21 UTC 版)

ディディエ・アルゼット (Didier Artzet、1963年2月10日 - ) は、フランスの元レーシングドライバー[1][2]ニース出身。

日本でのレース参戦時表記は ディディエ・アルツェー であった[3]

経歴

キャリア初期

ニースで生まれ育ち、10代から故郷の街中をオートバイで走りまわることでバランス感覚と反射神経に役立ったと述べている[4]

フォーミュラ・ルノーに少し乗ったあと、1985年10月フランスF3に個人資金でスポット参戦し22歳で四輪レースデビュー。

フォーミュラ3

1986年はフランス・フォーミュラ・ルノー・ターボに参戦し1勝、ランキング3位を獲得。コート・ダジュールの地元企業が参戦予算を支援してくれることになり、「モナコ・スポンサーリング」というチーム名で実際にはベルギーのKTR(ケアバーグ・トランスポートレーシング英語版)が運営する体制で同年のモナコF3グランプリに参戦。着用するヘルメットは目立つようにとピンクにカラーリングされ、以後の彼のトレードマークとなった。

1987年はKTRよりフランスF3に参戦。同年5月のモナコF3グランプリでは、ジャン・アレジステファノ・モデナジョニー・ハーバートベルント・シュナイダーなど各国F3トップ選手を抑えて決勝レース優勝、ポールポジションファステストラップハットトリックで制覇した。この時には「このレースはF1のボスたちがみんな見ていたし、将来はこれでF1のチャンスが来ると確信していたんだけど、結局そうはならなかった。しかし、レースの世界ではそんな話は無数にあるうちの一つなんだろう。」と述べている[4]

同年は世界ツーリングカー選手権マカオグランプリにも参戦。以後国際F3000ル・マン24時間レース[5]などに参戦した。

フォーミュラ3000

F1への登竜門である国際F3000選手権では、自身の持ち込み資金が少ないことから十分なマシンノウハウを持つチームからの参戦機会を得られず、1988年の終盤戦に下位チームのRacetec 3000のシートを得てなんとかスポット参戦を果たすことが出来たが、1989年シーズンを3戦終えた時点でチームは資金が尽きレースから撤退[4]、同年はその後トヨタ・チーム・トムスから全日本ツーリングカー選手権仙台ハイランドグループA300kmレースにスポット参戦し、ル・マン24時間レースでは同じくトムスの星野薫鈴木恵一チームの一員に加わりトヨタ・88Cで参戦した。

1990年に移籍したアポマトクスのレイナード・90DはそのF3000キャリアの中ではまともな環境だったが、ここでポー・グランプリ予選8位や、バーミンガム市街地で表彰台獲得など公道コースでその才能を発揮した[4]

F1に縁が無かったレースキャリアを振り返り、「フランスでは1991年にアルコールとたばこの広告が完全に禁止された(注:エヴァン法)。これでモータースポーツに関してフランスの才能ある人材がその業界の端に追いやられた。当時まだたばこ会社による資金流入が大きかったこの世界では、エルフルノーとのパイプがないフランス人にはF1マシンをテストする機会すら与えられなくなった。もう業を煮やして、違う新たな生活をはじめようと思った。」と語る[4]

引退後

その後ニューカレドニアヌメアに生活基盤を構築し、時には自分のオートバイでオーストラリアイースタン・クリーク・レースウェイまで行き、コースで走らせて楽しむほか、スリリングな水上オートバイを楽しむようになった[4]

評価

フランスのレース専門誌では「アルゼットは、母国フランスのレースシステムに乗ってF1に到達できたジャン・アレジやエリック・ベルナールヤニック・ダルマスオリビエ・パニスらと同じように才能があったが、どういうわけかネットをすり抜けてしまった。特に公道コースでレーシングカーを制御するための反射神経は素晴らしかったが、おそらく間違った時代に生まれた人でした。エルフ、キャメルマールボロなどのF1への黄金のハシゴのどれもが彼には無かった。」と評される[4]

レース戦歴

フランス・フォーミュラ3選手権

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1985年 個人参戦 ラルト・RT30 フォルクスワーゲン NOG MAG LED PAU LAC ROU DIJ LEC NOG ALB CET
5
LEC 19位 6
1987年 ダニエルソン・レーシング マルティニ・Mk52 ALB
9
NOG
Ret
MAG
18
DIJ
7
LEC
5
PAU
Ret
ROU
8
LEC
6
LAC
8
NOG
7
BUG
16
LED
2
CET
2
7位 52
1988年 BSLコンペティション マルティニ・Mk45 NOG
Ret
DLM
5
PAU
2
LAC
Ret
ROU
Ret
LEC
2
ALB NOG BUG LED CET DIJ 8位 31

マカオグランプリ

チーム シャーシー/エンジン 予選 レース1 レース2 総合順位
1987年 オレカ ダラーラ・387 アルファロメオ 17位 台風の影響で1ヒート制 7位
1988年 Intersport Racing ラルト・RT32 トヨタ・3S-G 16位 23位 DNF (エンジン) NC

国際F3000選手権

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 レーステック3000 ローラ T88/50 コスワース DFV JER VLL PAU SIL MNZ PER BRH BIR BUG
DNQ
ZOL
14
DIJ NC 0
1989年 レイナード 89D SIL
Ret
VLL
7
PAU
Ret
JER PER BRH BIR SPA BUG DIJ NC 0
1990年 アポマトクス レイナード 90D DON
DNQ
SIL
Ret
PAU
Ret
JER
11
MNZ
Ret
PER
Ret
HOC
8
BRH BIR
3
BUG NOG 15位 4

全日本ツーリングカー選手権

チーム コ.ドライバー 使用車両 車番 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1989年 バイヨ スープラ トムス 黒沢琢弥 トヨタ・スープラ 37 JTC-1 NIS SEN
8
TSU SUG SUZ FSW

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年 トヨタ・チーム・トムス 星野薫
鈴木恵一
トヨタ・88C C1 20 DNF DNF
1992年 ウェルター・レーシング パトリック・ゴーニン
ピエール・プティ
WR・LM92-プジョー C4 42 DNF DNF

脚注

  1. ^ Profile”. driverdb.com. 7 July 2012閲覧。
  2. ^ Magazine, Speedsport. “Didier Artzet: Racedriver biography - career and success” (英語). www.speedsport-magazine.com. 2023年1月27日閲覧。
  3. ^ ハイランドグループA 300km選手権レース大会 JAFモータースポーツ 1989年5月21日
  4. ^ a b c d e f g DIDIER ARTZET: THE FRENCH F1 TALENT THAT SLIPPED THROUGH THE NET Motorsport.com 2017年8月20日
  5. ^ Palmares de Didier Artzet aux 24H du Mans”. www.les24heures.fr. 2023年1月27日閲覧。



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