金属鉱床研究者として
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北海道大学時代(1949年~1955年)に指導教員の鈴木醇教授や同僚たちとともに、北海道を中心とした金属鉱山の記載を精力的に行った。その対象は多様で、テルル、マンガン、鉄、ビスマス、銀、銅、鉱床の記載など多岐にわたっている。これらのうち特に鉄に関連する研究は大町の大きな業績の一つであり、その後の地質調査所以降においても精力的に調査を続け論評を行った。 工業技術院地質調査所(1956年~ 現国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター)に移ってからは、主に特別研究「低品位鉄鉱石調査研究」に従事し、さらに国内外の鉄を中心とした資源調査を行い、多くの報告書にまとめている。また、昭和29年から全国のウラン調査が長期計画として始まり、大町もそれに携わった。さらに、地質調査所の基幹業務である地質図編纂や特に昭和32(1957)年から始まった200万分の1「日本の鉱床図」(時代別I~IV)の調査・編纂に携わった。 金属鉱物探鉱促進事業団 (1966年~ 現独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)に移ってから広域地質構造調査を軌道に乗せた。これは戦後の日本産業が昭和30年代に神武景気、岩戸景気ときわめて高い成長を示す中で、国内地下資源産業は国際競争の渦に飲み込まれ、激しい試練を受けようとしていた。この流れの中で、政府はこれら地下資源の積極的な開発とその安定供給を図る方針のもと、「国による地下資源埋蔵地域の基礎調査の早急実施」などの国会決議により、特別研究として地質調査所に昭和38年度から「広域調査研究」が始まり、昭和41年度から事業団が引き継いで実施することになった。これに伴い大町は、広域調査の中心メンバーとして、広域調査研究-精密調査-企業探鉱による三段階の探鉱助成方式を軌道に乗せた。また、1968年(昭和43年)度から海外の鉱物資源の安定確保のために始まった「海外地質構造調査」に大町は海外調査課長として当初から携わり、国内でシステマティックに実施された三段階の探鉱助成方式のシステムを海外においても導入し、海外プロジェクト(チリ、ザイール、カナダ、マレーシアなど7つ)を企画・実施して実績を上げた。 地質調査所鉱床部長(1971年~) 時代にはつくば移転や、地質標本館の建設などに携わりながら、日本の資源問題についてや、地質調査所海洋地質部長 (1977年~) になって海底鉱物資源 (マンガン団塊) 調査の方針作成などを取りまとめるとともに、海洋資源について精力的に取りまとめた。 山形大学異動(1980年〜)後は教育へ軸足を移しつつも、科学研究費補助金総合研究(A)「深海底多種金属資源の生成環境と鉱物鉱床学的研究(課題番号57340048)」の研究代表者として、国内外の大学に所属する研究者による海洋鉱物資源研究を組織化し多大な成果を上げた。
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