醸造業の近代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
1890年代から1920年代にかけては、酒造りにおいて急速な近代化の時代を形成する。これを伝統技法の逸失ととらえる立場もある。 近代以前はいわゆる科学的再現性が酒造りにおいてはつねに大問題であった。たとえ生酛によって良い酒ができても「同じものをまた造る」ということが不可能に近かったのである。1890年代でも、仕込んだ醪のうち10%はできあがる前に腐ったり(腐造)、火落菌によってだめになったり(火落ち)、おかしくなったり(変調・変敗)、すっぱくなったり(酸敗)することを前提として仕込みを行なっていた。醗酵を進める酵母については、酒蔵では空気中に自然に存在する酵母や、昔から住みついている酵母(蔵つき酵母・家つき酵母)の力に頼っていたが、株が一定せず、雑菌と混同しやすく、醸造される酒は品質が安定しなかった。また、ひとたび腐造が起こると、それを起こした菌は木樽や木桶のなかに浸透するため、何年にもわたって影響をおよぼし、酒蔵にとっては長い災禍となった。 このような災禍の恐れのない醸造環境のことを安全醸造といい、これは酒造りそのものが腐造と隣り合わせだった昭和時代中期まで、醸造業における重要な概念となる。1895年(明治28年)に日清戦争に勝利した明治政府は日清戦争で獲得した賠償金などの余力を、酒税による国庫の財源の基盤確保を盤石にするために安全醸造の行なえる醸造業の近代化に投資した。醸造業の近代化は国家戦略の一部としてとらえられ、西洋の微生物学を導入して積極的に支援した。当時、国家歳入の酒税に頼る割合は高く、1897年(明治30年)には33.0%に達し、税制の健全化を図るに酒税の安定が先決であると考え、国家レベルの投資の一環として、清酒の品質向上と安全醸造のため、醸造業の近代化に取り組んだ。 1904年(明治37年)には大蔵省の管轄下に国立醸造試験所(現・酒類総合研究所)が設立され、1909年(明治42年)には同試験所で山廃酛が開発され、翌1910年(明治43年)には速醸酛が考案された。1907年(明治40年)に日本醸造協会が主催する第1回全国清酒品評会が、1911年(明治44年)には国立醸造試験所によって第1回全国新酒鑑評会が開催された。醸造試験所では酵母やカビ(麹菌など)の研究が重要であると掲げられ、銘醸地とされる灘・伏見・広島などの酒造場の酒母から、優良な酵母の分離、実用化が試みられた。その結果が優秀と評価された酵母を、1906年(明治39年)に設立された醸造協会が純粋培養し、全国の酒造場に頒布するという仕組みも整えられていった。
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