酒田・山形とは? わかりやすく解説

酒田・山形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 02:26 UTC 版)

原口祐之」の記事における「酒田・山形」の解説

酒田県明治8年1875年8月鶴岡県になり、翌年には山形県置賜県合併して山形県となった。祐之は新たに鶴岡山形県土木四等属(十等出仕)に配せられる。県令である三島通庸山形における政策中心は、道路・橋整備公共施設建築であった江戸時代までの山形地域は、日本海最上川経由する舟運により、江戸よりも大坂強く結びついていた。しかし明治時代陸運重視されると、陸路による東京までの交通整備進められた。 明治13年1880年)に米沢福島間に萬世大路万世大路)こと栗子街道を、明治15年1882年)には山形仙台間に関山街道完成させた。この両道は、馬車通行可能な規格作られた。こうして山形県産物陸路福島仙台出て、ついで奥州街道鉄道による東京へ輸送路が確立した結果、県経済活況呈した三島の命を受けた祐之は、他にも隣県通じ車馬通行可能な道路いくつも建設した栗子山隧道(後の栗子トンネル)、関山隧道関山トンネル)等のトンネル工事多数橋梁工事が行われた。また、羽州街道須川石造常盤橋作った。これらの道はのちに国道13号国道48号となり、トンネル橋梁代替わりバイパス化を経ながらも、明治以降物流変化によく対応し利用されることになる。 建築では、県庁病院学校などを当時としては大きな規模多数作った銀座煉瓦街国家規模建築指導した祐之の経験発揮され当時世界で最新トラス工法日本古来伝統技法である五重の塔建築技術融合させた工法建設された。 現存するものに旧済生館病院本館重要文化財)・旧東村山郡役所旧東田川郡役所現存しないものでは山形県庁舎鶴岡朝暘学校などがある。これらは擬洋風建築建てられたが、作業従事した棟梁たちがその後形式踏襲したため、東北地方には多数擬洋風建築存在することとなった洋画家高橋由一は、これらの建築物都市の景観描いている。 また、三島通庸お抱え写真家でもある菊地新学により建築物橋梁写真残されている。

※この「酒田・山形」の解説は、「原口祐之」の解説の一部です。
「酒田・山形」を含む「原口祐之」の記事については、「原口祐之」の概要を参照ください。

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