辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い
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「中城ふみ子」の記事における「辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い」の解説
1949年4月、ふみ子は帯広に戻って以降、「辛夷短歌会」の句会に参加するようになった、句会の参加は帯広高等女学校時代の同級生であった木野村晴美に誘われたことがきっかけであると伝えられている。ふみ子は帯広神社社務所で月一回開催される句会に熱心に参加した。夫との関係が悪化し、ついには夫婦別居となったふみ子を支えたのが短歌であった。この頃親友に「和歌が救いのやうになって、嘆きも苦しみもみなそこに投げ込んで燃焼して」と、書いている。 水の中根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ 自らを根無しの一本の茎に例えたこの句は、「辛夷短歌会」主催の野原水嶺の賞賛を受けた。「新墾」には1950年6月号に掲載されており、またふみ子自らが選句、構成し、死去直前に発行された第一歌集、「乳房喪失」の句の中で、最も早い時期に詠まれた句である。 ふみ子は「辛夷短歌会」で自らの運命を大きく変えることになる人物と出会う。大森卓である。ふみ子が執筆したラジオドラマ「冬の海」の中で、大森卓をモデルとした主人公「小森」について、「人間は一生のうちに自分の運命や思想をすっかり変へてしまふ程の、強い影響力を持つ人に出会ふことがある」と語っている。大森は「辛夷短歌会」の主要メンバーのひとりで、才能に恵まれた歌人であったが、ふみ子と出会った時点、既に重い結核にかかっていた。歌会で大森と出会ったふみ子は妹の敦子に「素晴らしい人に会った」と語ったという。大森のことを知る人物によれば、彼はふみ子の夫、中城博に似たところがある鋭さを感じさせる人物であり、またふみ子好みの美男子であった。 大森に出会った頃、ふみ子は 絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき という句を詠んでいる。この句は、家政学院在学中にふみ子が私淑する岡本かの子を称え、詠んだ「絢爛の牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし」の改作である。岡本かの子に捧げられた元歌は、改作の結果、平凡な生き方ではない、絢爛な花の中に置いても見劣りしない人生、つまり短歌の世界で成功したいというふみ子自身の願いを述べた句となっている。 ふみ子が「素晴らしい人」と絶賛した大森卓には看護師の妻がいて、入院中の病院に勤務しながら夫の看護に従事していた。当時、辛夷短歌会を主導していた野原水嶺、舟橋精盛はともにふみ子と大森卓との関係を愛人関係であったとしている。ただ、本当に愛人関係にあったのかどうかについては疑問の声もある。確実なことはふみ子は大森卓から多大な影響を受け、そして激しい恋情を抱いたことである。 当時、ふみ子は短歌の世界で成功したいとの思いを抱くようになっていた。大森は周囲から短歌に命を賭けていたと言われていた。前述のふみ子作のドラマ「冬の海」の中で、主人公の小森は「君が不幸だと思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」と、述べている。大森は重い結核の病床にあった、遠からぬうちに命果てるであろうことを直視しながら短歌にその思いをぶつけていた。上手く行かない現実の中でもがき苦しんでいたふみ子にとって、大森の姿は強い衝撃を受けた。ふみ子は自らの不幸を直視する姿勢を大森との出会いの中で学んでいった。そしてそれは数年後に訪れるふみ子自身の乳癌闘病、死を前に生かされることになる。 生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし 1951年(昭和26年)1月、病床にあった大森卓が創刊に尽力した短歌雑誌「山脈」の創刊号にふみ子は、「わが想う君」と題し、上記のような大森卓に対する激しい恋慕を詠んだ句を発表する。あまりにも赤裸々な思いを詠んだふみ子の句は当然話題となったが、噂を恐れるようなことは無かった。しかし大森との関係の終焉は意外と早かった。 「山脈」の創刊後まもなく、大森卓には別の若い恋人がいることが明らかとなる。もともと大森は看護師の妻と結婚する以前、その若い恋人と交際していたが、周囲の反対もあって交際は実らなかった。そこで大森は思いを実らせることが叶わなかった恋人によく似た、看護師の女性と結婚するに至った。しかし重い病床にあった大森と、その初恋の女性との交際が再開されたのである。大森の看病は看護師の妻と若い恋人の2人が担うという奇妙な事態が発生した。病室で大森の若い恋人と鉢合わせとなったふみ子は激怒し、いったん大森への思いを断ち切った。 大森卓への思いを断ち切ったふみ子は、新たな恋を探そうとした。相手は放浪詩人の石川一遼と帯広畜産大学の学生であった高橋豊である。石川は帯広に居た期間も短く、ふみ子の歌にいくつか詠まれた程度であったが、ダンスをきっかけに知り合った高橋豊とは実際に交際していた期間こそ短かったが、ふみ子の死の直前まで文通が続いた。 1951年9月27日、大森卓は亡くなった。大森の死後、発行された短歌誌「山脈」は大森卓追悼号となった。ふみ子は大森卓追悼号に9首の短歌を発表した。 いくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず 多くの女性の心を掴んだ大森卓も亡くなってしまえばもはや妻のものでも誰のものでもない、つまり自分のものにするのだと詠んだのである。いったん断ち切ったかに見えた大森への激しい恋慕を、ふみ子は挽歌の形で爆発させたのである。この大森卓への挽歌はふみ子の名作のひとつであるとの評価がある。
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