辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会いとは? わかりやすく解説

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辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)

中城ふみ子」の記事における「辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い」の解説

1949年4月ふみ子帯広戻って以降、「辛夷短歌会」の句会参加するようになった句会参加帯広高等女学校時代同級生であった木野村晴美誘われことがきっかけであると伝えられている。ふみ子帯広神社社務所月一開催される句会熱心に参加した夫との関係悪化しついには夫婦別居となったふみ子支えたのが短歌であったこの頃親友に「和歌救いのやうになって嘆き苦しみみなそこ投げ込んで燃焼して」と、書いている。 水の中根なく漂ふ一本白きなるわれよと思ふ 自らを根無し一本例えたこの句は、「辛夷短歌会」主催野原嶺の賞賛受けた。「新墾」には1950年6月号に掲載されており、またふみ子自らが選句構成し死去直前発行され第一歌集、「乳房喪失」の句の中で、最も早い時期詠まれた句である。 ふみ子は「辛夷短歌会」で自らの運命大きく変えることになる人物出会う大森卓である。ふみ子執筆したラジオドラマ冬の海」の中で、大森卓をモデルとした主人公小森」について、「人間一生のうちに自分運命思想をすっかり変へてしまふ程の、強い影響力を持つ人に出会ことがある」と語っている。大森は「辛夷短歌会」の主要メンバーひとりで才能恵まれた歌人であったが、ふみ子出会った時点、既に重い結核かかっていた。歌会大森出会ったふみ子は妹の敦子に「素晴らしい人に会った」と語ったという。大森のことを知る人によれば、彼はふみ子の夫、中城博に似たところがある鋭さ感じさせる人物であり、またふみ子好み美男子であった大森出会った頃、ふみ子絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯欲しき という句を詠んでいる。この句は、家政学在学中ふみ子私淑する岡本かの子称え詠んだ絢爛牡丹のさなかに置きてみて見劣りもせぬ生涯なりし」の改作である。岡本かの子捧げられ元歌は、改作結果平凡な生き方ではない、絢爛な花の中に置いて見劣りしない人生、つまり短歌世界で成功したいというふみ子自身願い述べたとなっている。 ふみ子が「素晴らしい人」と絶賛した大森卓には看護師の妻がいて、入院中の病院勤務しながら夫の看護従事していた。当時辛夷短歌会を主導していた野原嶺、舟橋精盛はともにふみ子大森卓との関係を愛人関係であったとしている。ただ、本当に愛人関係にあったかどうかについては疑問の声もある。確実なことはふみ子大森卓から多大な影響を受け、そして激しい恋情を抱いたことである。 当時ふみ子短歌世界で成功したいとの思いを抱くようになっていた。大森周囲から短歌に命を賭けていたと言われていた。前述ふみ子作のドラマ冬の海」の中で、主人公小森は「君が不幸だ思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」と、述べている。大森は重い結核病床にあった、遠からぬうちに命果てるであろうことを直視しながら短歌にその思いぶつけていた。上手く行かない現実中でもがき苦しんでいたふみ子にとって、大森の姿は強い衝撃受けたふみ子は自らの不幸を直視する姿勢大森との出会いの中で学んでいった。そしてそれは数年後訪れふみ子自身乳癌闘病、死を前に生かされることになる。 生涯二人得がたき君故にわが恋恐れ気もなし 1951年昭和26年1月病床にあった大森卓が創刊尽力した短歌雑誌山脈」の創刊号ふみ子は、「わが想う君」と題し上記のような大森卓に対す激しい恋慕を詠んだ句を発表するあまりにも赤裸々思い詠んだふみ子の句は当然話題となったが、噂を恐れるようなことは無かった。しかし大森との関係の終焉意外と早かった。 「山脈」の創刊後まもなく、大森卓には別の若い恋人がいることが明らかとなる。もともと大森看護師の妻と結婚する以前、その若い恋人交際していたが、周囲反対もあって交際は実らなかった。そこで大森思い実らせることが叶わなかった恋人によく似た看護師女性と結婚するに至った。しかし重い病床にあった大森と、その初恋女性との交際再開されのである大森看病看護師の妻と若い恋人2人が担うという奇妙な事態発生した病室大森の若い恋人鉢合わせとなったふみ子激怒し、いったん大森への思い断ち切った大森卓への思い断ち切ったふみ子は、新たな恋を探そうとした。相手放浪詩人石川一遼と帯広畜産大学学生であった高橋豊である。石川帯広居た期間も短くふみ子の歌にいくつか詠まれ程度であったが、ダンスきっかけ知り合った高橋豊とは実際に交際していた期間こそ短かったが、ふみ子死の直前まで文通続いた1951年9月27日大森卓は亡くなった大森死後発行され短歌誌「山脈」は大森追悼となったふみ子大森追悼号に9首の短歌発表したいくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず 多く女性心を掴んだ大森卓も亡くなってしまえばもはや妻のものでも誰のものでもない、つまり自分のものにするのだと詠んだのである。いったん断ち切ったかに見えた大森への激しい恋慕を、ふみ子挽歌の形で爆発させたのである。この大森卓への挽歌ふみ子名作のひとつであるとの評価がある。

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