軍縮の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 02:47 UTC 版)
詳細は「en:Conference for the Reduction and Limitation of Armaments」を参照 連盟規約の第8条では、連盟加盟国に対し「軍備を、国家の安全と国際的義務の共同行動による実施との整合性を保つための最低限度まで削減する」ことが求められていた。連盟の時間とエネルギーの大半はこの目標に費やされていたが、多くの加盟国は、このような大規模な軍縮が達成できるのか、そもそもそれが望ましいのかどうか確信が持てずにいた。ヴェルサイユ条約では、戦勝国である連合国側にも軍縮を試みる義務を課しており、敗戦国に課せられた軍備制限は、世界的な軍縮への第一歩と言われていた。連盟規約では、各国の軍縮計画を作成する任務が連盟に与えられていたが、理事会はこの任務を、1932年から1934年の世界軍縮会議(英語版)の準備のために1926年に設置された特別委員会に委ねていた。 連盟加盟国がこの問題に対して持っていた意見はさまざまだった。フランスは、自国が攻撃されたときの軍事的支援の保証なしに軍備を縮小することには消極的だった。ポーランドとチェコスロバキアは、西側からの攻撃に対して脆弱であると感じており、軍縮を行う前に連盟による加盟国への攻撃への対応を強化することを望んでいた。この保証がなければ、ドイツからの攻撃のリスクが大きすぎるため、軍備を縮小することはできなかった。第一次世界大戦後、ドイツが力を取り戻すにつれ、特に1933年にアドルフ・ヒトラーが権力を得てドイツの首相になってからは、攻撃に対する恐怖心が高まった。特に、ドイツがベルサイユ条約を覆そうとしたり、ドイツ軍を再建したりしたことで、フランスは軍縮に消極的になっていった。 世界軍縮会議は、1932年に国際連盟がジュネーヴで開催し、60か国の代表が参加したが、この会議は失敗に終わった。世界軍縮会議の冒頭で、1年間の軍備拡張モラトリアムが提案され、のちに数か月延長された。軍縮委員会は、フランス、イタリア、スペイン、日本、イギリスから海軍の規模を制限するという初期の合意を得たが、最終的な合意には至らなかった。結局、軍縮委員会は、1930年代のドイツ、イタリア、スペイン、日本による軍備増強を止めることができなかった。 ベルサイユ条約で禁止されていたヒトラーによるラインラントの再軍備、ズデーテン地方の占領、オーストリアへのアンシュルスなど、第二次世界大戦につながる重大な出来事に直面しても、連盟はほとんど沈黙していた。それどころか、連盟加盟国自身が再軍備した。1933年、日本は連盟の判断に従うことなく脱退し、同年には、世界軍縮会議でフランスとドイツの間の武器の平準化が合意されなかったことを口実にドイツが脱退、1937年にはイタリアとスペインが脱退した。連盟の最後の重要な行動は、1939年12月にフィンランドに侵攻したソ連を追放したことだった。
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