資料、家系、名前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:44 UTC 版)
詳細は「ミンダウガス家」を参照 ミンダウガスについて書かれた同時代の資料は非常に乏しい。その統治に関する大部分は『リヴォニア押韻年代記』と『イパチエフ年代記』によるものである。両者ともリトアニアの敵対者によって作成されたことからリトアニアへの偏見に満ちており、特に後者はそれが顕著である。 両書とも、最も重要な出来事の日付や位置ですら欠けているなど、内容が不完全である。例えば『リヴォニア押韻年代記』は、ミンダウガスの戴冠に関しては125行の韻文を充てているが、その日付と場所の記述は欠けている。その他重要な資料は、ミンダウガスの洗礼及び戴冠に関する教皇勅書である。リトアニア人は、リヴォニア騎士団の土地を獲得するという一連の行動以外は自らの記録を残していないが、この真実性に関しては論議がある。資料が欠けていることから、ミンダウガスとその統治に関しては答えることの出来ない幾つかの重要な問いがある。 この時代に言及した資料が少ないため、ミンダウガスの出自及びその家系は決定的に確立されていない。これに関して16、17世紀に執筆された『ブィホヴィエツ年代記 』は、ミンダウガスはローマ帝国貴族に起源を持つパレモナス朝出身ではないかと疑っている。ミンダウガスの生年は時々、1200年頃ではないかと提示されるが、疑問の余地はある。父親に関しては、『リヴォニア押韻年代記』に活動的な公(ein kunic grôß)として言及されているが、名は記されていない。後年の年代記はリムガウダスという名を付けている。1219年の条約に言及されているダウスプルンガス(リトアニア語版)はミンダウガスの兄弟であり、ダウスプルンガスの息子であるタウトヴィラスとゲドヴィダスは甥であると推定されている。ミンダウガスには2人の姉妹がいたと思われ、1人はヴィーキンタスに嫁ぎ、もう1人はハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチと結婚した。ヴィーキンタスとその息子のトレニオタは、後年の権力闘争で主要な役割を果たした。ミンダウガスにはモルタ(英語版)及びその姉妹で、名前の知られていない妻が少なくとも2人いた。モルタ以前の妻の実在に関しては、モルタの息子が未だ幼い頃、ヴァイシュヴィルガスという名の息子と、1255年にシュヴァルナスと結婚した、名前のわからない娘の2人の子供が、既に独立した生活を送っていたため、恐らく存在したのではないかと思われる。ヴァイシュヴィルガスとその姉妹以外にも、ルクリスとルペイキスという2人の息子がいたことが、資料で言及されている。この2人はミンダウガスとともに暗殺されている。ミンダウガスの子供に関する情報は限られており、歴史学者はその人数について論じ続けている。ミンダウガスには他にも2人の息子がいたのではないかといわれ、その名は後に筆写士の写本の合成によって、ルクリスとルペイキスとなった。 13世紀のリトアニアは、僅かながら諸外国との接触を持っていた。リトアニア人の名前の発音は曖昧で、様々な年代記作者には不慣れであったことから、自分達の母語に似せて変えた。歴史上の文書に記されたミンダウガスの名はラテン語のMindowe; ドイツ語のMindouwe、Myndow、Myndawe及びMindaw; ポーランド語のMendog、Mondog、Mendoch及びMindovg ; ロシア語のMindovg, Mindog及びMindowh とその他様々な言語で歪められた形で記録された:。ロシアの資料は、ミンダウガスの生涯に関する最大級の情報を提供してくれることから、ミンダウガスの本来のリトアニア名での再現に関しては、言語学者によって最も信頼性があると判断されている。最も人気のあるロシア語での翻訳はMindovgであり、これが MindaugasないしMindaugisとして再現されたのは何の問題もなく且つ自然なことであった。1909年に、リトアニアの言語学者であるカジミェラス・ブーガ は、-asという接尾辞を付けた研究書を出版して広く受け入れられた。Mindaugasは、キリスト教化する以前に使われた古風の二音節化されたリトアニア人の名前であり、min とdaugの二つの構成要素からなる。その語源は"daug menąs" (最良の知恵) ないし"daugio minimas" (最良の名声)に由来すると考えられる。
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