賄賂政治家という風聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 14:53 UTC 版)
この時代、株仲間の公認に際し、特権を得ようと賄賂の贈与が横行し、「役人の子はにぎにぎをよくおぼへ」や「役人の骨っぽいのは猪牙にのせ」などと風刺された。ただし、田沼時代の賄賂政治は田沼の功利的経済政策の仕組み上必然的に起きており、田沼の個人的好みなどに、その原因を求めるべきではない。 大石慎三郎は、辻以来、確定的であった意次自身の汚職に関して嫌疑を示し、これらを彼の失脚後などに政敵の松平定信などが作り出した話だと論ずる。また、仙台藩主伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したと主張し、逆に田沼を非難していた松平定信さえも田沼にいやいや金品を贈ったと書き残していることなどをその論拠として主張している。特に大石は辻の『田沼時代』で示された汚職政治に関する論拠は史料批判に乏しかったと批判している。特に大石は同時代の別人、それこそ松平武元や松平定信といった清廉なイメージがあった政治家には贈収賄があった史料が残っているのに対し、むしろ意次の方にはそれが皆無だったと指摘する。ただし、当時の政治の常道としての賄賂や、特に現代で言うお歳暮程度の贈収賄はよくあったとも述べている。総じて大石は、信憑性のない資料では田沼意次が”金権腐敗の政治家だとは断言できない”と主張しているだけで、田沼が”金権腐敗の政治家ではない”とう積極的な主張を行っているわけではないという点には注意が必要である。 これに対し藤田覚は大石が主張する田沼を金権腐敗の政治家ではなかった根拠として挙げている伊達重村からの賄賂を田沼が拒絶したという文書に対し大石の誤読だと結論付けている。伊達重村の工作への対応にて大石は松平武元は人目を避けて来るようにと重村の側役に指示したのに対し、田沼は7月1日での側役の訪問の許可を求めに対し、書状で用事が済むのだから必要がないと答えた事を根拠にして大石は武元を腐敗政治家、田沼を清廉な人物と解釈している。これに対し藤田は7月1日での賄賂の機会は放棄したが側人の古田良智が田沼の屋敷に直接訪ねる(=賄賂を直接受け渡しする)許可を田沼本人が直接出しているのだから結局のところ松平武元と同じで賄賂を受け取っており、田沼が清廉な人物であるという解釈はとても成り立たないと書いている。 藤田覚は田沼が伊達重村の中将昇任への口利きをし、二年後に中将昇任を実現させたとしている。その後、将軍からの拝領物などの件でも請願をうけ、実現のために働いている。さらに、官位だけでなく秋田藩は拝借金や阿仁銅山上知撤回のために田沼に工作しており、薩摩藩も拝借金の件で同様に田沼に工作していたと述べている。同時に藤田は、田沼時代は賄賂の代名詞とされているが、実際には賄賂による武家の猟官や商人の幕府からの受注獲得などは田沼以前から問題視されており、賄賂を受け取る役人・幕閣は珍しい存在ではなく、特にその傾向は17世紀末の元禄時代から激しくなっていたと説明している。このことについて新井白石が、賄賂分を上乗せした工事代を支払うようになったので元禄期に財政危機に陥ったと説いた事例を紹介している。以上のことなどからも、田沼時代は賄賂が特に横行した時代ではあったが、賄賂を貰うこと自体は特別なことではなかったとされる。ただし、田沼は当時独裁的な権力を一人所持して一心に賄賂攻勢を受けた為、目立つ存在であった。藤田は田沼は大名家としての成立事情から家臣の統制が甘く、賄賂の横行を許してしまい、未曽有の賄賂汚職の時代を招いてしまったと述べている。 深谷克己は相良城の築城経費について領民に御用金を命じて恨まれたり、商人から多額の借金をした形跡がないことを指摘。そして、相良城築城の財源は城着工に当たって行われた寄進にて賄われたと主張している。寄進者を記載した勧化帳には江戸の商人達の名前が多く並んでおり、商人たちは何かにつけて田沼家へ常態的に付け届けを行っており、それが定例の上納金となっていたと主張している。
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