賄選総統からの失墜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 02:25 UTC 版)
黎元洪を追い落とした曹錕は、大総統就任を急ぐようになる。まず米国の支持を得るために米国駐華公使への工作をおこない、同年6月には大統領ウォレン・G・ハーディングから中国統一支持声明を引き出すにいたった。更に高凌霨や呉景濂らを通して大々的に議員の買収と脅迫を行った。こうして10月5日、曹は北京政府の大総統に就任、新たな中華民国憲法(中国語版)を公布した。しかしその腐敗した過程により、曹自身は「賄選総統」、憲法は「賄選憲法」などと称されてしまう。世論は完全に直隷派から離れてしまい、更に直隷派内部からも馮玉祥らが不穏な動きを見せるようになった。 第1次奉直戦争に敗北した張作霖率いる奉天派は、報復のため軍の近代化を積極的に推進していた。そして1924年(民国13年)10月、奉天派が軍事行動を開始し、第2次奉直戦争が勃発した。曹錕は呉佩孚を河南から呼び戻し、山海関でこれを迎撃させる。ところが10月23日、第3軍総司令馮玉祥が突然兵変を発動し、曹を逮捕、北京を制圧してしまった(北京政変)。11月2日、曹は正式に大総統を辞任、奉天派と馮に挟撃される形となった呉も南方へ逃走している。 1926年(民国15年)4月、当時北京を掌握していた国民軍指揮官の鹿鍾麟は、張作霖と結んで反抗しようとした臨時執政段祺瑞を急襲、下野に追い込んだ。その際に鹿は、軟禁されていた曹錕を釈放している。曹は開封へ逃れ呉佩孚の庇護を受けたが、もはや軍事・政治の前線に出て活動しようとはしなかった。国民革命軍の北伐後は天津のイギリス租界に逃れ、長期にわたり寓居した。日本側から傀儡政権への参加を求められたこともあったが、曹は応じていない。1938年(民国27年)5月17日、同地にて肺炎のため病没。享年77(満75歳)。
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