資料としての『山上宗二記』
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「山上宗二記」の記事における「資料としての『山上宗二記』」の解説
秘伝書でありながら「名物」の紹介を中心とする点からは、当時の数寄者がこうした道具の拝見を通じて養われる目利を必須技能としていた実態が窺われる。 また同書では茶道具を「名物」と「数寄道具」に大別する。前者は唐物を主体とした権威をもった道具であり、対して後者は堺の数寄者達が好んだ「麁相」(そそう)を感じさせる道具である。これは茶の湯が停滞していた状況にあって、進取の気風をもった堺衆が既存の権威を否定することで茶の湯を刷新しようとしていたものと読み取ることができる。そのような意味では、「わび茶」の発生とは「名物」を礼賛する価値観への否定であったことをよく示している。 またこのような価値観の変化は道具の順序などによく表れており、先行する「正月本」では茶入を「茄子」「肩衝」の順で記していたが、後の「二月本」ではこれが逆転している。その原因は書院向きとされていた「茄子」から小間向きの「肩衝」へと、数寄者の評価が移っていったからではないかと説明される。 「わび茶」の発生はこのような時代相を背景としており、同書からは生々しくその空気を読み取ることができる。 同書はまた茶室の図が多く載せられていることでも貴重である。「三畳敷は、紹鴎の代までは、道具無しの侘び数寄を専らとする」という記載もあり草庵茶室の成立を考える上でなくてはならない資料を提供している。なかでも「紹鴎四畳半」の図は研究者によって再三取り上げられており、草庵成立直前の茶室のありようを生々しく伝えている。
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