谷口鉄工場(谷口鉄工所)
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「谷口清八」の記事における「谷口鉄工場(谷口鉄工所)」の解説
谷口清八は、1883年(明治16年)5月、長瀬町に谷口鉄工場を設立し、鉱山用機械の製作を始める。明治20年代に入ると、佐賀県内の石炭業が活況を呈し、石炭採掘も盛大になり、この為鉱用ポンプ、諸機械の需要が増加した。諸機械の製造を始め、鉱山用機械や鋳鉄管などの製造に着手。 蒸気ポンプが導入され、石炭の採掘が多地域に進展、蒸気ポンプで汲み出された水の排水用に排水管を供給し、九州の石炭産業とともに、工場経営を拡大していった。 1897年(明治30年)の佐賀県の統計書によると、当時の従業員は58人。石炭産業の興隆に伴い、工場への需要が増え、1898年(明治31年)に、工場の拡張を行い、設備も改善して製造能力を高めた。 明治40年代になると、蒸気機鑵、水道鋳鉄管、軍用鉄器などを製作する。1910年(明治43年)3月に開催された第13回九州沖縄八県連合共進会に出品した製品が一等賞金牌を受賞。この当時、工場敷地2100坪、従業員400人以上、販売経路は朝鮮や台湾に及んだ。 日露戦争時には砲弾の製造も行い、砲弾の利益は全て日本赤十字社に献納した。1914年(大正3年)には、従業員457人、蒸気機関1台、電気動力機4台を装備。同年、三度の増築を行い、翌年には、仕上げ工場351坪、1917年(大正6年)春には、約120坪の第三鋳物工場、1918年(大正7年)春には、約130坪、1919年(大正8年)4月には、300坪の工場を増築した。1920年(大正9年)には、従業員681人、長瀬町にある本工場をさらに増築し、敷地6000坪余りに、神野に5000坪余りの分工場を置くまでに至った。谷口家の子孫の方の話によると、当時の従業員は、非正規社員を含めると、最大で3000人近くまでになったという。 しかし、戦後恐慌により、大量に買いこんでいた鋳物用の印度銑鉄の大暴落と製品の大値下がりによる大損失が生じる。1926年(大正15年)、業績が悪化した主要取引先の古賀銀行が休業。さらに、その後の昭和金融恐慌及び鉄工業界の不況で、経営不振となり、1929年(昭和4年)工場を閉鎖した。 明治天皇、大正天皇、大隈重信が視察に来たという逸話が残る。 ※一部の資料には、谷口鉄工所とあるが、公的資料等に、谷口鉄工場とあるので、鉄工所の表記は間違いと思われる。
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