谷口鉄工場とは? わかりやすく解説

谷口鉄工場(谷口鉄工所)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 04:12 UTC 版)

谷口清八」の記事における「谷口鉄工場(谷口鉄工所)」の解説

谷口清八は、1883年明治16年5月長瀬町に谷口鉄工場を設立し鉱山機械の製作を始める。明治20年代に入ると、佐賀県内の石炭業活況呈し石炭採掘盛大になり、この為鉱用ポンプ、諸機械需要増加した。諸機械製造始め鉱山機械鋳鉄管などの製造着手蒸気ポンプ導入され石炭の採掘が多地域進展蒸気ポンプ汲み出され水の排水用に排水管供給し九州石炭産業とともに工場経営拡大していった。 1897年明治30年)の佐賀県統計書によると、当時従業員58人。石炭産業興隆に伴い工場への需要増え1898年明治31年)に、工場の拡張行い設備改善して製造能力高めた明治40年代になると、蒸気機鑵、水道鋳鉄管軍用鉄器などを製作する1910年明治43年3月開催され第13回九州沖縄八県連合共進会出品した製品一等賞金牌受賞。この当時工場敷地2100坪、従業員400人以上、販売経路朝鮮台湾及んだ日露戦争時には砲弾製造行い砲弾利益全て日本赤十字社献納した1914年大正3年)には、従業員457人、蒸気機関1台、電気動力機4台を装備同年三度増築行い翌年には、仕上げ工場351坪、1917年大正6年春には、約120坪の第三鋳物工場、1918年大正7年春には、約130坪、1919年大正8年4月には、300坪の工場増築した1920年大正9年)には、従業員681人、長瀬町にある本工場をさらに増築し敷地6000余りに神野5000余り分工場を置くまでに至った谷口家の子孫の方の話によると、当時従業員は、非正規社員含めると、最大3000人近くまでになったという。 しかし、戦後恐慌により、大量にいこんでいた鋳物用の印度銑鉄大暴落製品の大値下がりによる大損失が生じる。1926年大正15年)、業績悪化した主要取引先古賀銀行休業。さらに、その後昭和金融恐慌及び鉄工業界不況で、経営不振となり、1929年昭和4年工場閉鎖した明治天皇大正天皇大隈重信視察に来たという逸話が残る。 ※一部資料には、谷口鉄工所とあるが、公的資料等に、谷口鉄工場とあるので、鉄工所表記間違い思われる

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