証券不況と国際投信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:35 UTC 版)
1958年、7証券会社が投信業務の免許を得て、証券会社の兼営による委託会社は14社となった。翌1959年、大手証券4社が新委託会社を設立し、兼営という利益相反問題に応じた。昭和30年代には好景気を背景に株式投信が人気を呼び、増加する資金が株式を需要し株価を上昇させるという循環がみられた。 1961年1月には日興証券と庭山慶一郎の発案で公社債投信が大衆向けに発売された。4月に公社債発行条件が引き下げられると、ファンドは利回りを確保するため新発債の組み入れ比率を80%から50%に下げた。7月には公定歩合が引き上げられ、公社債投信は解約が増加した。組み入れ公社債は証券会社が引取った。1963年に当時大蔵大臣だった田中角栄も公社債投信を支援した。同年株式投信の残存元本は1955年比で20倍の1.17兆円となっていた。時代人は「池の中のメダカが鯨になった」というたとえを残している。ある証券会社の支店は懸垂幕で「銀行よさようなら、証券よこんにちは」なる文句を掲げた。やがて流動性を失った公社債が引き金となり証券不況が起こった。 1967年8月、投信法改正でファミリーファンドの根拠となる「みなす投資信託」が認められた。ファミリーファンドは子投信を消費者に販売して、その資金で親投信を買うという仕組みである。FOFがトップダウンの投信ピラミッドならば、このファミリーファンドは逆にボトムアップのそれであった。ユーロクリアの設立された1968年には単位型・追加型投信がともに元本額を回復した。 1969年2月、野村証券とN・M・ロスチャイルド&サンズとメリルリンチが共同出資で、いわゆる太平洋ファンド(Pacific Seaboard Fund)を設立した。この純資産額は3200万ドルで、日本株ほか太平洋沿岸諸国の銘柄が1800万ドルを占めた。3月、東京バロールというルクセンブルクの日本株専門投信が設立された(純資産額2100万ドル、全額日本株投資)。4月、金利平衡税が従来の18.75%から11.25%に引き下げられた。これとニューヨーク株式市場の不振と見通しの悪さから、5月からミューチュアル・ファンドが日本の証券市場に買出動してきた。キーストン・カストディアン(Keystone Custodian Funds, Inc.)やドレフュス・ファンド(Dreyfus Fund)、そしてフィデリティ・インベストメンツが日本株を組み入れ注目されたのである。9月、ドレフュス・ファンド(純資産24億ドル)が1億ドルを日本株へ一挙に投下してきた。翌1970年1月、連邦準備制度が日本株式投資に対するガイドラインを強化した。 太平洋ファンドの投資顧問は、少なくとも日仏投信(1964年3月設定)と野村証券(1969年1月10日大蔵省認可)である。 当時、外人投資の中心は欧州の投信であった。彼らは日本の比較的かぎられた優良株・成長株に集中投資をして、ユーロクリア創立以降の市場価格形成において完全に主導権をとった。こうして株価収益率概念が日本市場に定着した。
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