観音崎線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:36 UTC 版)
「京浜急行バス久里浜営業所」の記事における「観音崎線」の解説
須24:横須賀駅 - 堀内 - 馬堀海岸駅 - 観音崎 須28:横須賀駅 - 堀内 - 馬堀海岸駅 - 観音崎 - 観音崎自然博物館(夏季を除く休日ダイヤのみ) 須22:横須賀駅 - 堀内 - 馬堀海岸駅 - 防衛大学校 須27:横須賀駅 - 堀内1913年(大正2年)10月12日:浦賀横須賀間自働車会社(横須賀自動車商会の前身)が横須賀駅 - 浦賀芝生間の運行を開始 1921年(大正10年)10月3日:横須賀市街乗合自動車が横須賀駅 - 観念寺入口(今の若松町)を開業。のち合併により横須賀自動車となる。 1924年(大正13年)9月:横須賀駅 - 堀之内に延長。 戦中までに堀之内 - 走水も開通し、一部休止により戦後は横須賀駅 - 堀之内、同 - 大津で運行。 1948年(昭和23年)9月20日:大津 - 伊勢町の運行を再開。 1950年(昭和25年)12月25日:伊勢町 - 走水間の運行を再開、堀ノ内 - 走水間の運行となる。 1952年(昭和27年)4月2日:堀ノ内 - 走水を延長し、横須賀駅 - 観音崎の運行を開始。 1955年(昭和30年)7月1日:横須賀駅 - 防衛大学の運行を開始。 1973年(昭和48年)4月8日:横須賀駅 - 観音崎ホテル間の運行を開始。 2000年(平成12年)10月1日:横須賀中央駅発19時以降の便を日ノ出町経由に変更 2005年(平成17年)3月16日:防衛大学行の防衛大学校構内運行が廃止。正門前の防衛大学校行に変更。 2022年(令和4年)3月13日:堀内営業所の閉鎖により久里浜営業所に全路線移管。 観音崎線は走水・観音崎方面と防衛大学校方面に分かれる。共通区間である横須賀駅 - 馬堀中学間は、両者あわせ12分ヘッドで運行し、その先は観音崎方面に運行する便の比率が高く、休日はさらに高まる。観音崎自然博物館行きは休日のみの運行で、本数は大変少ない。2002年(平成14年)10月1日より、日中の須27系統を無くし、代わりに堀内バス停において乗務員交代を実施している。 観音崎線のルーツは1897年(明治30年)に石川卯之助らが開業した横須賀浦賀間乗合馬車にあるといえる。田戸(今の米が浜近辺) - 浦賀芝生間の運行で、石川馬車と呼ばれていた。1913年(大正2年)になると、浦賀横須賀間自働車会社により乗合自動車の運行が開始される。しかし当初のそれは、5 - 6人乗りで、乗客のいない時は運休し、また乗客の申し出によっては路線外へも運行していたようである。運賃も馬車が田戸 - 浦賀間13銭に対して同48銭と高額に設定されていた。大正時代後期になるとバス事業も盛んになり、多数のバス会社が設立された。なかでも当時の横須賀 - 浦賀間は重要幹線であったため、1922年(大正11年)11月1日に太平自動車が、同年に石川自動車が、更に1924年(大正13年)には横須賀自動車商会が、それぞれ運行を開始している。 大正末期から昭和初期にかけて、乱立するバス事業者を統合すべく横須賀自動車が設立され、横須賀駅 - 浦賀間の路線もこれに統合された。1927年(昭和2年)5月には上宮田まで路線が延長され、同時期に石川馬車の営業権を買収し、同馬車を廃止している。また1930年(昭和5年)発行の浦賀名所案内によると、馬堀海岸駅 - 走水間および浦賀駅 - 鴨居間にバスが運行されていたことがうかがえる。
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