要塞聖堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/02 16:06 UTC 版)
中世に建造された要塞聖堂は、丘の上に建てられた聖堂と城壁から成る。聖堂はhalle型で、建造物群の中心にある。 聖堂は1490年から1520年の間に後期ゴシック様式で建てられたもので、この様式で建てられたトランシルヴァニアの聖堂としては最後のものである。大型の記念碑的建造物であるこの聖堂には、同じ背丈の3つのhallesがある。 入り口になっているのは、西門、北門、南門である。ウィーンとニュルンベルクの親方たちはその名付け親になった。彼らは1483年から1513年にかけて当時の聖堂の素晴らしい祭壇を作り上げた。それは28枚の絵画のパネルを具えたトランシルヴァニア最大のものである。石を彫り上げた説教壇は、1500年に作られたもので、ブラショフの親方ウルリヒの作品である。 14世紀初頭に作られた聖歌隊席両端の背の高い椅子は、美術史家ジョルジェ・オプレスク(George Oprescu, 1881年-1969年)が称賛している。 聖具室の入り口は素晴らしいものである。その扉は1515年に地元の親方たちが作り上げた19個もの錠からなる非常に複雑な仕組みが採用されている。1900年のパリ万博で賞を受けたこの錠は、中世ザクセン人の工作技術の優れた例証である。当時の仕組みは今でも機能しており、観光客にも示されている。 聖堂を取り巻く要塞群は、トランシルヴァニア地方の農村部の城塞としては最も硬い部類に属する。これらの防衛施設群は、14世紀以降の3重の城壁、6つの塔、数階建ての3つの稜堡を並べたものである。 上部には、防衛用の通路、大時計、鐘がある。死者記念塔は北東部に位置し、その1階には1913年以降のこの聖堂の聖職者たちが永眠する霊廟がある。優れた墓石群はシビウのニコラウス・エリアス(Nicolaus Elias)の手になるものである。 カトリックの塔は南側に位置している。この塔には、マルティン・ルターの宗教改革がトランシルヴァニア地方にも広まったことで聖堂をプロテスタントが使うようになったことを受けて、ブラショフのヨハンネス・ホンテルス(Johannes Honterus, 1498年-1549年)が建てたカトリック用の礼拝堂が入っている。 東の稜堡には、かつて喧嘩をした夫婦を2週間閉じ込めていた監房があった。そこに閉じ込められている間は、食器も寝台も一人分しか与えられなかった。普段は、それで司法当局を呼ばずに仲直りをしたので、離婚はビエルタンでは非常にまれなものだった。 南東部には「ラードの塔」がある。ビエルタンの市民はそこにラードを保存していたことからその名がある。 16世紀に、城塞の東・西・南側に第三の城壁が建造された。北西部には監獄の塔があったが、1840年に取り壊され、跡地に学校が建てられた。第三の城壁の南側には入り口の塔が建てられ、西側には「織物職人たちの塔」が建てられた。 町から教会内部に入るには、町の中央広場の監視塔近くから伸びている長さ100 m の屋根付き階段を昇る。階段の出口には大きな石が置かれている。かつては日曜日になるとその上に悪事をなした人々を置き、1週間にわたり共同体全体の目にさらすためのものだった。それは、彼らを共同体に加えるための、制裁及び教育の手段として効果的に機能していたようである。 ビエルタンの聖マリア聖堂とその城塞は、ヨーロッパ各国、アメリカ合衆国、オーストラリアなどに散らばったビエルタン出身者たちの寄付によって再建された。ビエルタンの要塞聖堂は世界的に有名なもので、1993年からはユネスコの世界遺産リストに登録されている。
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