西武自動車から西武バスへ
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「西武バス」の記事における「西武自動車から西武バスへ」の解説
西武自動車(初代)はまず、6割以上にも達していた戦時休止路線の復旧を行い、同時に路線の新設・延伸を進めていった。都内では、他社に遅れをとったものの1948年から都営バスとの相互乗り入れによる都心直通路線を開設して路線を東へと延ばし、練馬区を重点に西武鉄道沿線の路線拡充も進めた。また、埼玉県でも国際興業バスとの相互乗り入れにより、県内の中核都市間を結ぶ運行を開始した。西武鉄道沿線の人口増加も手伝って、昭和20年代から30年代にかけては、急速に事業規模を拡大した。 1958年には、国土計画興業(現・プリンスホテル)より軽井沢・草津地区のバス事業「高原バス」を譲受し「千ヶ滝営業所」とした。この地区のバスは、大正時代に箱根土地によって始められたものである(ただし実際の経営は軽井沢高原バス合資会社が行っていた時期がある)。別荘地開発の進展による需要増と周辺バス事業者との競争に備えるため、国土計画興業による付帯事業の形から西武自動車の運営に移行して、経営力強化を図ったものである。 昭和30年代には、新宿 - 軽井沢間、新宿 - 大箱根間、豊岡町 - 小河内ダム間など、観光地へ向かう長距離路線が相次いで開設されている。一般路線も東京と埼玉にまたがって長距離を走るものが多数あった。昭和40年代に入る頃から交通渋滞悪化のため定時運行が難しくなり、長距離路線は廃止または短縮・分割されるようになり、地域によっては大幅な路線整理が行われた。 1969年4月、社名を現在の西武バス株式会社に変更した。 1970年代には各地で路線の撤退が相次ぎ、埼玉県内では草加から撤退、1973年4月には国際興業バスとの路線調整により創業以来の浦和駅から撤退した。東京では青梅 - 箱根ヶ崎、箱根ヶ崎 - 拝島、八王子、府中から撤退、1975年3月には青梅営業所で飯能・入間市への路線を残して青梅地区の大半の路線を廃止して東京都交通局青梅支所に引き継がれた。また軽井沢地区では長野原町から撤退した。 路線の整理が行われる一方、この時期には各地で大規模団地の造成が相次ぎ、団地と鉄道駅を連絡する路線が複数開設されている。団地路線の拡張は1990年代まで続くこととなる。 平成に入るとまもなく、経営効率の向上を図るため地域・部門ごとの分社化が開始された。まず、1989年に西武秩父バスが設立され、秩父地区の路線が順次移管された。同社は1996年4月1日に西武観光バスと社名を変更し、以降は貸切バス部門の移管も進められた。 軽井沢・草津地区の路線は、1991年6月25日に設立された西武高原バスに譲渡された。のちに2017年4月1日に西武観光バスへ吸収合併され、西武観光バス軽井沢営業所となった。 1999年に西武バスの子会社として「西武自動車(3代目)」を設立、同年12月に飯能営業所管内のぶしニュータウン線2系統を同社に移管した。同社の直営路線とされたのはこの2系統のみで、主な業務は路線の管理受託となった。この受託業務は飯能・立川・練馬高野台の各営業所で行われた。2010年12月1日に「西武自動車(3代目)」は西武バス本体に吸収合併され、同社に譲渡・委託されていた路線は西武バス本体による運行となった。 なお「西武自動車(2代目)」は、1983年設立の現・西武総合企画(SCCAT)である。 2007年には、西武グループで初の社史『地域とともに-西武バス60年のあゆみ-』が、西武バス公式の60年史として刊行された。編纂・制作には、交通ジャーナリストの鈴木文彦、クラッセ、BJエディターズが外部有識者として携わっている。
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